780年前の貴族社会で失恋した若き女性が行ったこと・・・【情熱の本箱(145)】
藤原定家の事績を記した本に刺激されて、定家の息子・為家の妻であり、冷泉家の祖となる為相の母である阿仏尼(1222年頃~1283年)の手になる『うたたね』と『十六夜日記』が読みたくなり、『中世日記紀行集』(福田秀一ら校注、岩波書店・新 日本古典文学大系)を手にした。
為家の没後、その遺産の播磨国細川庄を巡って長男・為氏と阿仏の息子・為相との間で領有権争いが生じ、その訴訟で勝ちを収めるべく、阿仏は50代後半という老いの身で東海道を下り、幕府の所在地・鎌倉に赴く。この経緯を記した『十六夜日記』は紀行文学として高名であるが、天の邪鬼の私には、若き日の失恋と遠江への旅を回想した手記『うたたね』のほうが面白く読めた。
10代半ばの頃、安嘉門院の女房として北山の麓の持明院殿に出仕していた阿仏は、ある貴族に恋をした。某年の春に始まった二人の交際は、一時はかなり親密になったが、秋頃には男の足も遠のき、やがて途絶えてしまう。失恋の痛手から年末に出家を思い立ち、翌春の月末の夜、自ら髪を切って御所を出奔する。雨の中を西山の麓の尼寺に辿り着き、やがてそこで一応出家の素志を遂げるが、男への未練はなお断ち切れずにいる。
そのうち病気になり、愛宕の近くへ移って傷心の生活を送っていたが、任地から一旦上京してきた養父に誘われ、気が紛れるかと、10月末に養父に付いて遠江へ下る。けれども田舎の生活は単調であり、11月末に都からの便りで乳母が病気と知ると、さっさと帰京してしまう。その後、阿仏は反省して心を落ち着けようとするが、理性よりも情熱が優る自分の将来はどうなることやら、と結んでいる。
「秋の風の憂き身に知らるる心ぞ、うたてく悲しきものなりけるを、をのづから頼むる宵は、ありしにもあらず、うち過ぐる鐘の響きをつくづくと聞き臥したるも、生ける心地だにせねば、げに今さらに『鳥はものかは』とぞ思ひ知られける」。あの方が来ると言ったので当てにして待つ宵の辛さを思えば、翌朝の別れの名残など物の数ではないというのだ。
「先に立ちたる車あり。前華やかに追ひて、御前などことことしく見ゆるを、誰ばかりにかと目留めたりければ、かの人知れず恨み聞ゆる人なりけり。・・・かくとは思し寄らざらめど、そぞろに車の中恥かしくはしたなき心地しながら、今一度それとばかりも見送り聞ゆるは、いと嬉しくもあはれにも、さまざま胸静かならず」。ある時、出先で目に留まったのは、私が密かにそのつれなさを恨み申し上げているあの方の行列であった。牛車の中にいても恥ずかしく、あの方と知っただけで言葉も交わさずお見送り申し上げるのは本当に胸が騒ぐことだと綴っている。
初めて目にした富士山は、こう描写されている。「富士の山は、ただここもとにとぞ見ゆる。雪いと白くて、風になびく煙の末も夢の前にあはれなれど、『上なきものは』と思ひ消つ心のたけぞ、もの恐ろしかりける」。当時の富士山は噴火していたのである。
安嘉門院右衛門佐という女房名で『続古今和歌集』に、安嘉門院四条の名で『続拾遺和歌集』など多くの勅撰和歌集に阿仏の歌が選び入れられている。
780年前の貴族社会で失恋した若き女性の思いと行動が、時空を超えて、生き生きと甦ってくる。