榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

須賀敦子のカトリックへの強い共感に脚光を当てた評伝・・・【情熱の本箱(336)】

【ほんばこや 2020年8月18日号】 情熱の本箱(336)

霧の彼方 須賀敦子』(若松英輔著、集英社)は、須賀敦子の意欲的な評伝だが、彼女のカトリックへの強い共感に脚光を当てている。

「祈りは、人から神にささげられるだけではない。むしろ、神が人のうちに生き、私たちのために祈っていることを発見すること、それが須賀敦子の感じていた信仰の営みだった。祈りとは、自らの想いを神に届けようとするのではなく、内なる神の声を聞くことであると彼女は感じていた」。

<キリスト教徒らしく生きるということは、人よりもたくさん祈りの時間をもつことにあるのでもなく、行いを澄まして徳たかい人になることにあるのでもなく、人生のあらゆる瞬間を観想に生きる――愛のまなざし、すなわち神のまなざしをもって生きるということなのです。そしてキリスト教とは、なによりもまず、われわれひとりひとりをとじこめている、かたいつめたいからからときはなって、われわれに愛の視線をあたえてくれるものなのではないでしょうか>。

「彼女にとって書くとは、亡き夫に送る手紙だった、厚く、たゆたう霧は彼女にとって、悲しみの日々に訪れる慰めの合図だった。霧は死者の姿を映さない。しかし、その向こうで『生きている』ことを告げ知らせている。霧は、無言のうちに生者に死者の姿は見えなくても、死者たちには生者が見えている、と伝えていた。『ミラノ 霧の風景』における『霧』はそのまま、伴侶を失った彼女の悲しみの光景であると同時に、生者が死者を感じるのは悲しみをおいてほかないことを知る彼女の境涯を象徴する一語になっている。・・・霧がまるで生物のように動く。それは彼女には亡き者たちの訪れのように感じられる。そうでなければ『何度も窓のところに走って行って、霧の濃さを透かして見る』こともないだろう。霧が濃くなればなるほど、逝きし者たちの国は近くなる。姿は目に見えないが、その存在を『たましい』は、はっきりと感じ取る、というのだろう」。

「亡き者と、痛みにおいて、密やかに交わる。胸を貫くような痛みを感じるとき、人は目に見えない死者の存在を感じるというのである。言葉にならない、ひとたび、そう感じるところに生まれるもの、それが須賀敦子にとっての文学だった。死者の姿は見えず、声も聞こえない。しかし、目に見えないことと存在しないこととは違う。むしろ、不可視であることが確かに、また、朽ちることのない姿で実在する証しである、と須賀は感じていた。不可視な実在を感じる、それは残された文章を読むことをめぐっても言えるだろう。書かれていないことは存在しなかったことではない。むしろ、書かれていることは書き得ないことによって支えられている」。

「(41歳で急死した)ペッピーノは、須賀にとって夫であり、無二の霊的な『兄妹』であり、また文学の、哲学の、そして神学の師であり、求道の生活における師でもあった。・・・ペッピーノと結婚してから須賀は、『日々を共有するよろこびが大きければ大きいほど、なにかそれが現実ではないように思え、自分は早晩彼を失うことになるのではないかという一見理由のない不安』に怯えていた。また、『つかまえどころのない真空のなかを落下するような気分に襲われたり』、『恐ろしいものが道の曲り角に隠れているのではないかという不安』から逃れることができなかったという。根拠のない理由で苦しんでいたわけではない。苦しむに十分な理由はあった。事実、病魔は夫を奪い去った。・・・失うことへの怖れはそのまま自らの生と愛する者への情愛の顕われであることを、須賀はこのときはっきりと感じとったのではなかったか。また、その情愛は同時に、相手が死者の国に行ってもなお消えることがないことも、おそらく須賀は感じ取っている」。

「伴侶を喪ったという出来事は、『不治の病』となって自分のなかにその痕跡を残している。そのことがはっきり分かった彼女は、その悲傷をもう完治させようとはしない。むしろ、それと共に生きて行くほかないという目覚めにも似た実感が静かに、しかし、確かに彼女を貫いている。・・・『そういったことどもから私を解放してくれた』と述べられているのは、夫が生きていたときのような生活を続けようとする状態から脱却することにほかならない。彼女はそこから脱け出したのではないと述べつつ、ある重大な発見がそこに随伴していることを隠さない。このとき彼女に『虚構』から真の意味において抜け出すには『虚構という手法のちから』を借りるほかないという自覚が芽生える。『虚構という手法のちから』。それは文学のちから、ことに『小説』という『手法のちから』にほかならない。須賀敦子の文学が、没後22年を経てもなお、そのちからを失わないのは、彼女が優れた文章家だったからではない。彼女の歩かなければならなかった道が、必然的に独自の、そしてそれが結果的に新しい形式の誕生へと結実していったからである。須賀に優れたエッセイがあることに異論はない。しかし、『ミラノ 霧の風景』『コルシア書店の仲間たち』(須賀敦子著、文春文庫)『ヴェネツィアの宿』(須賀敦子著、文春文庫)といった主著は、いわゆるエッセイ集ではない。これらは皆、高次な意味における小説だ。それも従来の私小説とは一線を画す、新しい意味と可能性を蔵した私小説なのである。『虚構』が、事実を真実の経験に昇華する。この働きを須賀がどれほど切望したか、彼女の作品を、狭義における『エッセイ』として読むだけでは感じにくいように思われる」。

カトリックへの共感は別として、本書には意外なことが、3つ記されている。

その第1は、須賀の「虚構」の種子が芽吹く上で、決定的な影響を与えたのが川端康成の存在であり、彼の小説――須賀がイタリア語訳を担当した『山の音』――であったこと。

第2は、夫の死後、須賀が恋という状態に落ちたこと。「夫を喪ったあとの彼女にも、自身が恋と呼ぶような交わりがあった。<私の恋は?行きつ戻りつ。私はとてもおばあさんになってしまって、もうダメと思う日と、いやァまだまだと思う日とがあります>(1977年3月10日付、『須賀敦子の手紙』)。この手紙から2ヶ月後の便りには<もう私の恋は終りました。その人をみてもなんでもなくなってしまった。これでイチ上り。一寸淋しいきもちだけどしずかで明るいかんじも戻ってきました。今はふうふう言って本読んだりしています>と記されている。須賀は再婚することはなかった。この恋は、恋のまま終わった」。

第3は、須賀のダンテに対する、根源的な親近感である。「誰の『神曲』訳とも違う、あきらかに須賀の文体だ。・・・この(「地獄篇」第2歌の)部分を引用したのは、ダンテの詩的な旅が、本格的に始まろうとする象徴的な場面であるからだけでなく、作家須賀敦子の生涯を照らしだしているようでもあるからだ。彼女もまた愛する者を喪ったあと『私だけはただひとり、苦しみと憐憫との戦い』の日々を生きたのである」。

須賀敦子の作品を愛する者にとっては、見逃せない一冊である。