権力奪取の必勝法・・・【リーダーのための読書論(31)】
政治の場であろうと、企業内外の権力闘争であろうと、権力奪取を目指す者にとって最高のテキストは、『王政復古――慶応三年十二月九日の政変』(井上勲著、中公新書。出版元品切れ)だと思う。
慶應3(1867)年10月14日に徳川慶喜が大政を奉還した後も、これでは不十分と考え、慶喜の再登場を恐れる岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通らは、天皇を中心とする真の朝廷政権樹立を実現すべく画策を進め、12月9日に天皇親政を宣言する王政復古の大号令を発令することに成功したのである。王政復古は、これにより、薩長が幕府を戊辰戦争に引きずり込み、その後の鳥羽・伏見の戦いで幕府を敗北させることとなる、正に幕末史の帰趨を決した共同謀議であり、宮廷クーデターであった。
慶喜については、司馬遼太郎が『最後の将軍』で「足利尊氏を逆賊に仕立てることによって独自の史観を確立した水戸学の宗家の出身であり、かれが受けた歴史知識はそれ以外にない。かれは自分が足利尊氏になることをだれよりもおそれ、その点でつねに過剰な意識をもっていた」と述べている。優れた政治的才能を持った慶喜が、薩長との争いの土壇場でへなへなと腰砕けになった理由が、この説明で理解できる。
これに対し、長州藩の木戸孝允が同藩の品川弥二郎宛ての手紙に「甘(うま)く玉(ぎょく)を我方へ抱き奉り候御儀、千載の大事」と書いていることからも明らかなように、薩長側は、仲間内で「玉」と呼ぶ若き明治天皇の権威を政治的に利用し、自分たちの正当性を主張することに主眼を置いていたのだ。
幕府を追い詰めようとする薩長側で、京都の政治社会において薩摩藩を代表したのは西郷と大久保であった。そして、坂本龍馬の仲介により成立した薩長連合で薩摩藩とタッグを組む長州藩の指導者が木戸と広沢真臣であった。この武力討幕の戦略を練り、これの推進を指導したのは、下級公家の岩倉、西郷、大久保の3名であった。武力討幕の中核を成した彼らだけが、幕府を倒した後の政治体制、すなわち天皇中心の明治維新政権を構想する能力を持っていた。彼らは、刻々と変化する政治社会に対応するために、次々と決断せざるを得ず、この決断の連続が彼らを創造的な政治指導者に育て上げたのである。
『王政復古』を勝利者の記録とするならば、『幕末史』(半藤一利著、新潮社)は敗者の視点に立った証言集と言えるだろう。いつの世も、歴史は勝利した者によって綴られるので鵜呑みにはできないというのが著者の立場だ。
西郷、大久保らの黒幕ともいうべき岩倉については、「この人は、関白鷹司政道の和歌の弟子となり、巧みにとり入って侍従となったということで察知できるように、ともかく目先が利き、大方だらしがない公家にあっては抜群に度胸があり、策略にも長け、政治家でした。その岩倉さんが孝明天皇に『チャンスですよ』と悪魔的にささやいたのです」といった調子だ。
「西軍(薩長)側は貧乏な公家を利用して偽の天皇のハンコを押させ、江戸でゲリラ戦もやり、討幕運動を無理矢理国内戦争に持ち込む手段に出たのです。勝海舟からすれば、そんなつまらないことを言ってないでもっと大きな目で見ろ、日本全体を思えば今がチャンスなんだ。(国内)戦争などせず新しい国づくりをはじめたほうがいい、となるのでしょう」と、薩長側に手厳しい。
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