私が小林秀雄を大嫌いな理由がはっきりした・・・【情熱の本箱(156)】
正直言って、私は小林秀雄が大嫌いである。若い時、小林の書いたものを読んで、言葉遣いは華麗だが内容が乏しい、対象とする人や物に対する独りよがりの思い込みが激し過ぎる、これでもかと言わんばかりに捏ねくり回した難解かつ曖昧模糊とした表現で読み手を煙に巻くありように反感を抱いて以来、今日に至っている。それなのに、世間で小林が批評の神様扱いを受けているのはなぜか。こんなに分かり難い表現をすることが許されていいのか。いったい読者の何人が彼の評論を理解できているのか――これらのさまざまな疑問を一挙に解決してくれたのが、『ドーダの人、小林秀雄――わからなさの理由を求めて』(鹿島茂著、朝日新聞出版)である。これほど溜飲が下がる思いをした読書は、本当に久しぶりのことだ。
小林の化けの皮を剥がすことに執念を燃やす鹿島茂が辿り着いた結論は、「小林秀雄はドーダのデパート」という至極シンプルなものである。「ドーダ」とは、漫画家の東海林さだおが提起した用語で、「人間の言語的・身体的コミュニケーションあるいは表現行為は、すべてこれ『ドーダ、おれ(わたし)はすごいだろう。ドーダ、マイッタか!』という自己愛の表出にほかならない」ことを意味している。
本書の本文は、「私は小林秀雄をなによりの苦手としている。まず、小林秀雄が書いたもので『わかった!』と思った経験が一度もない。文のひとつひとつが理解不能である。また、文と文のつながりもよくわからない。昔は、わからないのは、こちらの頭が悪いせいだと思っていたが、今になってみると、悪いのは小林秀雄の文の方だったということがわかる」と始まっている。
超ドーダ人間・小林が繰り出すドーダの技法は、多彩かつ悪辣である。「あれもダメ、これもダメと全方位的な否定ドーダをかまして、文学、芸術の諸党派を乱れ撃ちにしたあげくに、『おれのお袋が一番偉い』というように、実生活の背後に隠れてインテリたちを恫喝する」。「『有無を言わせぬ前提の強要』というやつにほかならない。・・・日本に紹介されたばかりの(あるいは未紹介)の思想家や哲学者の名前を『当然、知っていなくては話にならないからね。知らないのは不勉強な証拠だよ』といわんばかりの口吻で口にし、それによって自分にとって有利な土俵に相手を一気に引き込んでしまうという手口である」。
続いて、小林の文章と翻訳力が槍玉に挙げられる。「小林秀雄の文章というのは、これを文章構成の観点から見ると、証明の過程を欠いた断定の連続で、論理的にも飛躍が多く、評論というよりも、むしろ長めのマクシム(箴言)と呼んだほうがよい。いや、長めのマクシムとて論理性は不可欠なのだから、正確には、非論理的な言説のところどころにドスの利いた殺し文句が挿入されたものにすぎないと言うべきだろう」。
「僕が、はじめてランボオに、出くはしたのは、廿三歳の春であった。その時、僕は、神田をぶらぶら歩いてゐた、と書いてもよい。向うからやつて来た見知らぬ男が、いきなり僕を叩きのめしたのである。・・・僕は、数年の間、ランボオといふ事件の渦中にあつた」という有名な一節で知られているように、アルチュール・ランボー抜きで小林を語ることは難しいが、ランボーの『地獄の季節』の小林の翻訳はとんでもない代物だったのである。「小林秀雄のランボー経験というものは、誤読と誤訳に基づく、ある意味、『トンデモ体験』だった」。「ランボーに遭遇したとき、小林秀雄はランボーのパフォ―マティブ(行為遂行的な発話のこと。簡単に言うと、人をその気にさせるように促す言葉のこと)な要素につよく魅了されてこれを日本語で再現しようとしたが、そのとき語学能力の不足もあってランボーのパフォ―マティブを正しく理解・分析することができず、苦し紛れに伝記的要素から想像して自分なりのパフォ―マティブをつくりあげたが、このとき、半ば無意識的にランボーのパフォ―マティブを自らのそれと入れ替えてしまったのである。われわれはこれをパフォ―マティブの換骨奪胎と呼んだ」。「若者たちは訳文の内容はよくわからなかったにもかかわらず、小林秀雄のパフォ―マティブに痺れたのだ」。「問題は小林秀雄特有のパフォ―マティブが訳文の意味まで歪めてしまっている点である」。「『熱っぽく人間臭い』小林秀雄的パフォ―マティブは原文を『熱っぽく人間臭く』解釈してしまうからである。それはほとんど『誤解力』と呼んでよいほどのものであった。小林はやがてこの『誤解力』を翻訳ばかりか文藝批評にも適用することとなる。その『誤解力』の割合は『理解力』よりもはるかに大きく、6:4、ときに7:3くらいの比率であった。ひとことでいうなら、小林秀雄の翻訳と文芸批評はこの7:3で優位の『誤解力』の賜物なのである」。「一際強烈な小林秀雄のドーダが『誤解力』の原動力となっているのだ」。著者によって、ドーダ→誤解力→翻訳→文芸批評という小林に特有の脳内回路が剔出されているのだ。
小林のサント・ブーヴへの傾倒にも触れておかねばならないだろう。「ある出来事、それは、ほかでもない、昭和12年10月に中原中也が30歳という若さで没したことであった。そう、中原中也との邂逅と彼を挟んでの長谷川泰子との三角関係こそが小林にとって人生の謎であり、それは『齢をとればとる程複雑なものと感じられて』来たため、自らの人生を画するため、サント・ブーヴの『我が毒』を訳出しようと決意したと考えていいのである」。「中原に対する小林の関係は、(ヴィクトル・)ユゴーに対するサント・ブーヴのそれと相似的であるということだ。つまり、親友の妻(内縁の妻)を寝取ったということである」。しかし、「結局のところ、小林は長谷川泰子という女一人を少しも理解できぬままに終わった」のである。
小林の評論の本質があからさまに暴かれていく。「まさにこの図々しさ、杜撰さが小林秀雄の評論の特徴をなしているのである。すなわち、小林秀雄の評論というのは、たんなるサンプルにすぎない事例をたった一つだけ持ち出しておいて、それを他のサンプルと比較・検討・分析するという努力を払うこともなく、いきなり法則だと言いくるめるのを特徴としているが、これは経験した女は『長谷川泰子』一人なのに、『女一般』にすり替えるのとまったく同じ手口である」。「実体と観念の唐突なすり替え、これこそが小林秀雄マジックの特徴であり、文体を変に読みにくくしているのだが、まさにそれが、一部の未熟な文学青年を熱狂させるもととなったのである」。
著者は、小林は努力嫌いの手抜き人間、楽をして早く有名になりたい、出世したいという野望に衝き動かされた人間だというのである。「小林はショート・カット型の『面倒くさいことが嫌いな』立身出世願望の青年の典型である『ラスティニャック』(オノレ・ド・バルザックの『ペール・ゴリオ』の登場人物)のひとりであった」。「小林秀雄は、一人の女の理解に失敗したにもかかわらず『女』一般を理解したと思い込んだときと同じ構造で、やがて、一人の作家や詩人をそのままの姿で個別的に理解するという努力を怠りながら(というよりも初めから理解を放棄して)、その作家や詩人についての身勝手なイメージをつくりあげておいて、これを思いのままに裁断するという独善的道を選ぶことになるのだ」。「文芸評論に不可欠な、どんな対象であれ。いったんはその対象に寄り添って本質を見据えてから要約・分析し、次にそれを歴史なり文化なりのより大きなコンテクストの中においてなにか新しいものがあればこれを評価するという基礎作業がまったく行われていないのである」。「小林には、対象の内部まで入りこんでこれを理解し、しかる後に批判的に分析するという批評家に不可欠な能力が決定的に欠けていたのだ。ひとことでいえば、小林には、なんでもいいからドーダしたいという強烈な自己顕示欲がまず先にあって、このドーダを充足したいと思ったのだが、それを盛り込む器たる批評家的才能が欠如していたのである。その結果、編み出されたのが、一人の作家に替えて作家一般を置くという『手間省き』であり、辰野隆や鈴木信太郎などの東大仏文教師から聞きかじったフランス文学の知識の外ドーダ(ドーダの根拠を『外』、たとえば外国に求めて、その外国の思想や事象を参照対象にしながら、それと比べると日本の思想や事象はいかにダメかを示そうとするもの)的披露であり、ラ・ロシュフコーやラ・ブリュイエールに学んだ箴言をそれらの間に挟んで効果を演出するという『ドス利かせ』であり、頭の中でしっかりと理解も整理もされていない観念を生硬な漢語の中に無理やり詰め込んで判ったようなふりをするという『目くらまし』であり、論理で証明すべきところを暗喩で逃げるという詩的韜晦である」――と手厳しい。
「『批評するとは自己を語る事である。他人の作品をダシに使って自己を語る事である』は小林の全き本音であり、小林はドーダしたいがために、ランボーやヴァレリーを翻訳したのであり、批評を書いたのである」。東大仏文科の後輩に当たる鹿島によって、自分のドーダ体質がこれほど手酷く白日の下に晒されたことを、あの世の小林が知ったなら、どのような技を繰り出して反論するだろうか。