江戸時代の武士階級は、節操も倫理もない男女が少なくなかった・・・【情熱的読書人間のないしょ話(596)】
散策中に、森の奥で真っ赤に燃えているようなイロハモミジに出くわしました。池に紅葉が映り込んでいます。白いサザンカ、桃色のサザンカが群生しています。イチョウ並木は黄色に染まっています。因みに、本日の歩数は10,715でした。
閑話休題、『下級武士の日記でみる江戸の「性」と「食」』(永井義男著、河出書房新社)は、江戸時代の下級武士の日記から彼らの色気と食い気を見つめようというユニークな著作です。
収録されている日記は、『石城日記』(忍藩の下級武士・尾崎石城の絵日記)、『酒井伴四郎日記』(紀州藩の下級武士・酒井伴四郎の江戸における日記)、『桑名日記』(桑名藩の下級武士・渡部平太夫の日記)、『井関隆子日記』(旗本の妻・井関隆子の日記)、『游相日記』(田原藩の藩士・渡辺崋山の旅日記)――と、ヴァラエティに富んでいます。
『石城日記』から。「当時は娯楽が少なかった。しかも、江戸などの大都市と違い、忍城下には盛り場と呼べるような場所もない。さらに、武士の体面があるため、あまり目立つような行動はできない。けっきょく、誰かの屋敷に集まり、そこで宴会をひらいて騒ぐのが何よりの楽しみだった。みなで酒や肴を持ち寄れば、さほど金もかからない」。
「武士の妻は貞節を守り、たとえ夫と死別しても、『貞女は二夫をならべず』『貞女は両夫にまみえず』で、その後は後家を通し、再婚などしなかったと信じている人は少なくない。だが、実際には幕臣や諸藩の藩士を問わず、武士の離婚と再婚は少しも珍しくなかった。さらに、離婚の背景にはしばしば妻の密通があった。また、武士の妻が密通した場合、俗にいう、『重ねて置いて四つにする』で、夫は妻と相手の男を斬り捨てて成敗したと信じている人は多い。しかし、実際にはほとんど実行されなかった」。
『桑名日記』から。「最近、一帯に住む藩士の娘のあいだに張満(ちょうまん)がはやっているという。張満は腹腔内に液体やガスがたまり、腹部が膨張する症状だが、ここでは妊娠のことである。藩士の娘たちの風紀は乱れていた。いわゆる婚前交渉は珍しくなかった。効果的な避妊具や避妊薬がなかったため、結婚前の色恋沙汰は女の妊娠につながる」。
「藩士の少なからぬ妻女は、貞節や純潔とは無縁だった。武士の妻や娘はみな身持ちが固く、操を汚されそうになったら懐剣で喉を突いて自害するなど、幻想にすぎない」。
『井関隆子日記』から。「(旗本)戸田某の妻はすでに子供もいたのだが、屋敷に奉公する男と密通し、駆け落ちしようとした。すんでのところで取り押さえ、密通があきらかになったので、事情は伏せたまま別な理由をつけて離縁しようとした。ところが、いろんな事情があって離縁はできない。そこで戸田家では屋敷内に座敷牢を作り、そこに妻を幽閉した」。
「男色の夫を持った妻の悲劇といえようか。将軍家、御三家、御三卿、大名家はすべて政略結婚だった。正室の離縁などありえない。また、正室が男と浮気をするなどもまず不可能である。御三卿清水重好の正室貞子、御三家徳川斉朝の正室淑姫はみな結婚しながら夫にこばまれ、指もふれられないまま死んだ。なまじ高貴な家に生まれたがゆえの悲劇であろう」。
武士の日記を見ていくと、「性」を巡っては、節操も倫理もない男女が少なくなかったこと、「食」については、意地汚い、そしてみみっちい武士も結構いたことが分かります。当時の武士の多くが寄合や小普請組だったことも忘れてはならないでしょう。「寄合や小普請組は現代の公務員にたとえれば、最低限の給与は支給するし、無料の官舎にも住み続けてもよいので、『自宅待機せよ、出勤するな』と言い渡されたにひとしい。旗本のおよそ4割が寄合・小普請組だった。御家人は不明だが、おそらく4割以上は小普請組であろう。諸藩の藩士も似たような状態だった」。
退嬰的で放埓な武士階級の男女を、現代の我々は非難できるのでしょうか。