エリート意識芬々で、往生際の悪い定年男の物語・・・【情熱的読書人間のないしょ話(611)】
散策中、女房が「青い綺麗なシジミチョウよ」と声を上げました。何と、私が見たいと切望していたムラサキシジミの雌ではありませんか。成虫が越冬するこのチョウは、翅を広げて日光浴をしていたのです。翅を閉じるとこんなに地味です。最近は、私より先に女房が被写体を見つけることが多くなっています。ハクセキレイを見かけました。昼は白い半月も、夜は明るく輝きます。因みに、本日の歩数は10,034でした。
閑話休題、この著者一流のストーリー展開の巧みさに引き込まれて、『終わった人』(内館牧子著、講談社)を一気に読み通してしまいました。
主人公の「俺」は、大手銀行のエリートで出世街道を驀進してきたのですが、役員目前で子会社に出されてしまい、そこで寂しい定年を迎えます。自分の能力に大いに自信がある俺は、未練を断ち切れず、じたばたのた打ち回ります。
エリート意識芬々で、往生際の悪い主人公に、不快感を示す読者が多いことでしょう。しかし、主人公の自分本位の考え方、みみっちい行動に反感を抱くと同時に、ある部分では共感を覚えてしまう自分に気づき、自己嫌悪に陥ってしまった私です。
40代の俺は「行内を肩で風を切って歩き、頼られ、大口の顧客からの信頼も厚く、体中に力がみなぎっている実感があった。明日はどんな日になるだろう。明日が来ることが楽しみだった」。
ところが、定年後の現在は「これほどやることがなくても、町の図書館には行かず、散歩もしない。図書館は老人の行くところであり、散歩も老人のやることだ。俺は自分の判断による『老人的なるもの』からは距離を置く」。「現役時代にスケジュールで余白がなかった手帳は、真っ白だ。だから見ない」。私は毎日、10.000歩以上歩き、2つの図書館で本を借り捲り、手帳は予定で埋まっているぜと、主人公に言ってやりたいなあ。
「会社は個人の献身に報いてくれるところではない。サラリーマンは身を粉にしても、やめれば何も残らないのだ」。
「下り坂にある人間を、他人はハッキリと『下り坂だ』と見極めているものだ」。
「『職場と墓場の間』に何もない人生が、いかにつまらないか。それは俺の身にしみている」。
「年齢と共に、それまで当たり前に持っていたものが失われて行く。世の常だ。親、伴侶、友人知人、仕事、体力、運動能力、記憶力、性欲、食欲、出世欲、そして男として女としてのアピール力・・・」。
俺の恨み節が延々と続きます。
長年連れ添った妻は「年齢や能力の衰えを泰然と受けいれることこそ、人間の品格よ」と、俺に批判的です。
やがて、ひょんなことから、俺は小さな新興会社の代表取締役社長というポストに就くことができたのですが、意気揚々としていられたのも束の間で、思いもかけない非常事態が密かに忍び寄っていたのです。