世界の哲学書50冊が、門外漢にも分かり易く説明されている・・・【情熱的読書人間のないしょ話(699)】
千葉の流山を流れる江戸川の堤はナノハナ(セイヨウアブラナ)とセイヨウカラシナが咲き競い、黄色に染まっています。よく似た花を咲かせるナノハナとセイヨウカラシナは、葉の付き方――ナノハナの葉は茎をぐるっと取り囲むように付いており、セイヨウカラシナは木の枝のように付いている――で見分けます。コブシがたくさん白い花を咲かせています。ハクモクレンも負けじと白い花をたくさん付けています。コブシとハクモクレンは、花の咲き方――コブシは開き気味に咲き、ハクモクレンはすぼまり気味に咲く――と、花弁の数――コブシは花弁6枚、ハクモクレンは花弁6枚+萼片3枚――で見分けます。ツバキの花が散り始めました。因みに、本日の歩数は10,571でした。
閑話休題、『読まずに死ねない哲学名著50冊』(平原卓著、フォレスト出版)では、古代ギリシャから現代に至るまでの哲学書50冊が、素人にも分かり易く解説されています。
有名な哲学書だからといって、その主張を全面的に受け容れるのではなく、問題がある部分についてははっきりとそう指摘しています。著者のこの姿勢には好感が持てます。
トマス・アクィナスの『神学大全』で試みられている「神の存在証明」、ルネ・デカルトの『情念論』の「欲望は未来の『善』への原動力」という指摘、フリードリヒ・ニーチェの『権力への意志』の「『真理』の源泉は、生に対するルサンチマン」という主張、マルティン・ハイデガーの『存在と時間』の「死の本質観取」という洞察、ジャック・デリダの『声と現象』に対する「相対化は何も生み出さない」という批判――など、興味深い説明がてんこ盛りです。
ニッコロ・マキャヴェリの『君主論』についての次の箇所が印象に残りました。「理想を実現するためには、現実的な条件が必要だ。どれだけ高貴な理想であろうと、それを現実世界に無造作に持ち込めば、君主は破滅せざるをえない。確かに人間は政治に関与することができるが、政治で変えられるのは現実の半分だけであり、残りの半分は『運命』により支配されている。それゆえ君主は、自国の存亡がかかっているのであれば、悪徳であっても行わなければならない――。もちろんマキャヴェリは、君主は悪徳者でなければならないと言いたいわけではない。神が世界の秩序を定めているわけではなく、人間がそこに介入して世界の秩序を変えることができるのだから、そのリーダーとなるべき君主は、状況に合わせて柔軟に態度を変える力を身につけなければならないと主張するのだ」。必要とあれば、悪徳であろうと断固行え、というのです。
デカルトの『方法叙説』が、なぜ近代哲学の出発点となったのかという問いに対する答えは、至極明快です。「それは、デカルトが時代の問題を深くつかみ出し、理性に対する強い信頼をもとに、哲学を根本的に立て直したからだ。哲学の営みにおいて大事なのは、どれだけ物知りであるかではなく、どれだけ優れた原理を置くことができるかにある。本書を読むと、そうした思いを強くせずにはいられない。近代哲学は、キリスト教を中心とする中世的世界観の絶対性が崩れつつあるなか、いかにして認識の普遍性を確保し、誰もが『よい』生を送るための条件を見いだすことができるか、という問題に正面から取り組んだ。本書はそうした近代哲学の出発点を印すマニフェストと呼ぶべきものだ」。
エトムント・フッサールの『現象学の理念』では、現象学の基本姿勢が説かれています。「現象学的にはこう考える。まずは、正義そのものが存在しているという前提をいったんストップする。そのうえで、『どのような条件が、正義という概念を成り立たせているのか』とみずからの意識経験に問い、それに対する自分なりの答えを他者へ示し、ともに吟味検討して磨き上げていく。こうした意味で、現象学は意味や価値に関する学問の基本方法なのだ。フッサールにとって、現象学とは単に、私たちの認識の構造を明らかにすることだけを目的としているのではない。意味や価値について、より深く、より普遍的に論じるための土台をつくること」。
平原卓は竹田青嗣の弟子だけあって、類書に比べて、門外漢にも取り組み易い哲学入門書に仕上がっています。