榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

近世の西洋人だけが、危険を冒して大航海に乗り出した理由・・・【情熱的読書人間のないしょ話(773)】

【amazon 『<世界史>の哲学 近世篇』 カスタマーレビュー 2017年6月6日】 情熱的読書人間のないしょ話(773)

ツバメのヒナたちが成長したため、巣が窮屈になっています。総苞が白いヤマボウシの大木を見つけました。ニワトコが赤い実を付けています。クレマチスのシラユキヒメ(白雪姫)という園芸品種の白い花は清楚です。我が家の庭のあちこちで、アジサイとガクアジサイたちが咲き競っています。因みに、本日の歩数は11,105でした。

閑話休題、『<世界史>の哲学 近世篇』(大澤真幸著、講談社)は、近世を特徴づけるものとして、大航海と宗教改革の2つを挙げています。

「ただひとつ、近世の西洋の人々の経済活動には、顕著な特徴があった。彼らが海へと進出したことである。・・・海へと進出していったのは、近世の西洋人だけだった。考えてみると、これは実に無謀なことだ。彼らは、『新大陸』がどこにあるかを知って大西洋に出て行ったわけではないからだ。彼らの知識がいかにいいかげんなものだったかは、彼らがしばらくの間、アメリカ大陸をインドだと思い込んでいたことからも明らかだ。・・・どうして、近世に至って、西洋の(一部の)人々にだけ、海への進出への衝動が宿ったのだろうか。彼らは造船技術に長け、よい船を持っていたのか。違う。中国の皇帝の船やイスラーム商人の船のほうがずっと大きく、優れていたことがわかっている。では、海への進出によほどの利益があったのか。これも違う。かなり長い間、海への進出は、リスクが大きく、まったく割のあわない事業だった」。

「どうして、16世紀にヨーロッパで成立した世界=経済が、本格的な資本主義へと成長する種子を播くことができたのか? その一因、十分条件ではないにせよその必要条件のひとつは、ヨーロッパ人の海への進出、新大陸の『発見』を副産物とするような海洋への進出にあった」。

彼らを海洋へと駆り立てた衝動は何だったのでしょうか。「普通は、十字軍に最終的には集約される、中世の巡礼の旅と、近世初期の大航海とは、まったく別のものと考えられている。だが、両者の間には断絶だけではなく、連続性もあるのではないか。聖地を目指す巡礼の旅には、聖地に辿り着いただけでは充足できない、何か過剰なものがある。聖地を越えた移動を促す、あるいは聖地から外へと拡散的な移動を動機づける、過剰なものが、である。この過剰なものの転回として、つまりそれが行動として顕在化したとき、大航海という形態をとるのではないか」。中世的な巡礼と近世的な大航海の間には何らかの強い繋がりがあるのではないかというこの仮説は、説得力があります。

「聖地というものは、本来は、地上の特定の地点に固定される。ところが、キリスト教の下では、聖地は、受肉のメカニズムにしたがっているため、移動のポテンシャルを(も)孕んでいる。移動のベクトルが、ある閾値を越えて大きくなったとき、聖地は、陸上の『どこでもないところ』へと移動することになる。このとき、聖地は、海を越えた、もう一つの陸(新大陸)に再定位されることになるだろう。このもう一つの陸の上に置かれた聖地へと向かう旅行が、海洋への進出という形態をとるのだ」。

宗教改革に関連して、興味深いことが記されています。「1417年1月に、人文主義者で、また有能なブックハンターだったポッジョ・ブラッチョリーニは、キリスト教に、ローマ教皇庁の支配に決定的な痛打を浴びせる、異教的な内容の書物を、ドイツの片田舎の修道院の書庫で発見した。その書物とは、古代ローマ(前1世紀)の詩人ルクレティウスの長詩『物の本質について』である。われわれにとって興味深いのは、カトリックにとってきわめて危険な一書をこの世に解き放ったポッジョという人物が、教皇庁の中枢に勤める職員だったことである」。

この反キリスト教的な書物に記された思想が近代への扉を開いたというのです。「第1に、この宇宙論は神の摂理を否定している。レクレティウスによれば、『事物の種子』たる粒子は、作られたものではなく、破壊することもできない。こうした粒子たちの相互作用として、この世の秩序と無秩序が繰り返される。とすれば、こうした秩序も無秩序も神の計画の産物ではない。こうして神の摂理は単なる幻想として斥けられることになる」。

「第2に、この説によって、死後の世界が否定される。ルクレティウスの詩が述べていることは、すべての事物は微細な粒子からできている、ということであった。魂も例外ではない。そして、粒子そのものは不滅だが、粒子の複合の産物である事物は必ず消滅するのだった。とすれば、人間も死ぬことによって消滅するのであって、死後に何かが待っているわけではない。死後の世界の存在は、キリスト教が有効であるために絶対に放棄できない前提だ。中世のキリスト教徒は、死後に、天国に行くか、地獄に行くか、あるいは執行猶予が付いて煉獄で待機するかのいずれかであると信じていた。彼らは、さまざまな欲望を持っていたとしても、結局は、死後の世界が恐ろしかったので、つまり最終的に地獄に回され永遠の責苦の中に落とされるのが恐ろしかったので、現世にあっては、ときに禁欲し、さまざまな苦しみをも甘受せざるをえなかった。死後の世界は、教会による民衆支配の最後の決め手だった。死後の世界のヴィジョンに脅迫されて、キリスト教徒は、どんなに理不尽だと感じても司教の言うことを聞かざるをえず、教会への寄付を拒むこともできなかったのである」。死後には何もないと主張する『物の本質について』は、人々に嫌々教会に従う必要はないと教えているのです。現代にも通じる、宗教の本質と民衆支配の手管をこれほど巧みに表現できる著者・大澤は、只者ではありません。そして、古代ローマ時代に、現代の物理学に相通じる書物が存在したことに、心底、驚かされました。