片岡鶴太郎は、なぜ、あのような画が描けるのか、書が書けるのか・・・【あなたの人生が最高に輝く時(79)】
片岡鶴太郎の画、書
私は片岡鶴太郎の味のある画が好きだ。彼の個性的な書にも惹かれる。役者稼業を続けながら、どうしたら、あのような画が描けるのか、あのような書が書けるのか――興味を掻き立てられてきた。
その秘密に迫れればという期待から、『50代から本気で遊べば人生は愉しくなる』(片岡鶴太郎著、SB新書)を手にした次第である。
「私は1954年生まれの62歳ですが、毎朝、起きるのが楽しみでしょうがありません。やりたいことがあって、毎日時間が足りないと思うくらいです。この歳になってテレビの仕事に恵まれていることもありますが、その仕事を抜きにしても、毎日やりたいことがあって時間が足りないのです。ご存じの方も多いと思いますが、私はもともと声帯模写(ものまね)をするお笑い芸人です。その後、お笑いだけでなく、プロボクサー、役者、書家、画家、ヨーギ(ヨーガをする人)といくつもの顔を持つようになりました」。毎朝、起きるのが楽しみという点だけは、私も同様である。
魂を歓喜させるシード
「誰もが心の中に、自分の魂を歓喜させる『シード(種)』を育んでいます。ただその存在に気づいていないだけ、あるいは気づこうとしていないだけです。まずは自分の心に『私の魂は何をすれば歓喜するのか』と問いかけてシードの存在に気づくことです。そして、やりたいことのシードを見つけたら、毎日コツコツと水やりをしていくことです。すると、やがて芽吹き、魂の歓喜がもたらされるようになります」。
一日の過ごし方
私は、著者の生活にも興味を抱いている。「現在、私は一日をこんなふうに過ごしています。はじまりは毎朝のヨーガです。呼吸法とヨーガのポーズ、瞑想を一通りやるには3時間近くかかるので、朝の3時、遅くとも4時には起床しています。ヨーガをやって、水のシャワーを浴びると、次は朝食です。私は一日一食の食生活を送っており、その一食が朝食なのです。朝食はとてつもなく量が多いので2時間くらいかけてゆっくりと食べます。・・・仕事に出かけたり画を描きはじめたりする6時間くらい前には起きているわけです。6時間といえば起きている時間の3分の1くらいです。この時間が、もう忙しくて仕方ありません。3時に起きて朝9時に画を描きはじめたとします。大体、一日に一作を仕上げるのが習慣なので、そこから8~9時間はノンストップで描き続けます。ときどき白湯を飲みながら、作品に向かい続けていると、あっという間に時間が経ちます。描き終わって最後に落款(署名・押印)を押したら、すぐにシャワーを浴びて夜7時か8時には寝てしまいます。翌日も画が描けるというときは、『また明日描けるんだ!』と思って、朝起きるのが楽しみで仕方ありません。早く寝て、早く描こうと思いながら眠りにつくのです。テレビドラマの収録がある日も、大体同じルーティンです」。
画
画を描くようになったきっかけが語られている。「39歳のときに変化が訪れました。・・・手にしているものがなくなるときは、なぜか一斉になくなっていきます。何もかもが引き潮のようにサーッと沖合いへ流されていくかのようでした。浜辺にひとりぽつんと取り残されたきり、晩夏の夕暮れの浜辺で秋風に吹かれているような、そんな切ない心境でした。あれだけ情熱を傾けてきたボクシングも役者の仕事も根こそぎ失い、あとに残ったのは何もない自分のようでした」。
それから半年後、「そんな状態でも、ありがたいことに仕事はあるので、毎朝起きて出かけます。2月のある寒い朝のこと。その日は現場へ向け、朝5時に自宅を出ることになっていました。玄関を出て車に乗ろうとした瞬間、後ろのほうで何かの気配を感じます。ふと振り返ってみると、赤い花が咲いていました。それは、隣家の庭に植えられた木に咲く花でした。私は植物にはひとつも興味がないし、花の名前も分かりません。でも、その花がとても気になったのです」。
後で、その赤い花は椿と知るのだが、著者は、椿に感動したことを画で表現したいと思う。「画で表現してみたい。これが私の心に見つけた小さなシードでした」。
書
書を始めた経緯も記されている。「渓流の写真か何かを見て、ニジマスの美しさに魅せられて描いてみようと思ったのです。実際に描いてみると、思ったよりスペースが余ったのでそこに書を入れました。『飄々とただ風のままに行くだけ』。こんなふうに画とともに書も同時にはじめたのです。画と同様、書に関しても誰かに手とり足とり教わったことはありません。画集と同じように自分の好きな書を見ることを繰り返しました。展覧会にも行って、書家さんのいいところを盗んだりして、いろんな人の書を『食べ』させていただきました」。
就寝・起床時刻、一日一食などは、とても真似できないが、「自分の魂は何をすれば歓喜するのか」を自らに問いかける、ワクワクすることだけをやる――ことは十分可能だと確信している。