カタツムリの進化研究を通して、ダーウィン以後の進化論争を考える・・・【情熱の本箱(206)】
『歌うカタツムリ――進化とらせんの物語』(千葉聡著、岩波科学ライブラリー)には、正直言って、始終、イライラさせられた。チャールズ・ダーウィン以後の進化論争の歴史が臨場感豊かに綴られているのだが、自然選択説を奉じる「適応」派と、偶然を重視する、進化中立説に繋がる「非適応」派との間で、一方が勝ちを収めたかと思うと、もう一方が逆転打を放つといった感じで、一進一退の戦いが続いていく。なかなか決着がつかないので、せっかちな私はイライラしてしまったのである。
この進化論争が、著者の専門領域であるカタツムリの進化を巡る論争と同時進行的に展開されていく。
「戦いに直面した時、同じように有利ないくつもの戦略のうち、どの戦略に出会うかを決めるのは、主に偶然だ。一方、実際に戦略が達成されるのは、主に適応の結果である。戦いと偶然はともに関わり合うことにより、進化を通して多様な世界を作り出すのである」。
「非適応拡散も適応拡散も、同じ過程の違う姿、コインの表裏なのである」。
「カタツムリの進化研究を追って見えてきた歴史は、ギュリックとウォレスの戦いで始まった非適応と適応への進化観の分裂が、一方はライト、木村(資生)、グールドらをたどり、もう一方はフィッシャー、ケイン、クラークらをたどり、最後に新しい世代の研究者たちを経て共存するという、一か所だけ切れて交差したリングのような歴史であった。見方によっては、非適応かそれとも適応か、中立かそれとも非中立かという、同じところをグルグル回っているだけの、同じ論争の繰り返しに見えるかもしれない。だが実際には論争は、常に新しい発見や展開を促してきた。カタツムリの殻のように、同じところを回っているようで、実は常に新しいステージに登ってきたのである。例えば、一方は分子――ミクロなレベルの理解へ、もう一方は種から大進化――マクロなレベルへの理解へと。次のステージはきっと分裂したミクロとマクロの共存を目指す研究――遺伝子のネットワークと種のネットワークの結合だ。その新たな研究の舞台でも、やはり非適応と適応の議論は装いを変えて起こるだろう」。
どちらの説が最終的に勝利を収めるのかハラハラのし通しで、遂に最後まで読み通してしまったのは、本書が強い力で私を捉えて放さなかったからだ。進化に対する理解が深まったことの他に、もう一つ収穫があった。これまで、どう位置づけるべきか判断しかねてきた木村資生の進化中立説が、ダーウィンの自然選択説を引き継いだ進化総合説と、今や発展的に融合していることを知り、気分がすっきりした。
本書は、進化に興味を抱いている人にとって一読の価値ある一冊だ。