当時の金文、甲骨文を駆使して、周王朝の実像に迫った一冊・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1025)】
長野・茅野の標高1250mにある横谷温泉旅館で、雪見露天風呂を堪能することができました。黄金色の湯と透明な湯にゆったりと浸かりながら、眼前に迫る山の雪を眺めるのは、最高の気分です。宿から雪道を歩いて10分ほどの霧降の滝は、氷結しています。因みに、本日の歩数は11,677でした。
閑話休題、『周――理想化された古代王朝』(佐藤信弥著、中公新書)によって、周王朝の歴史と、この時代に活躍した多彩な人物たちについて学ぶことができました。
本書は、近年、陸族と発掘される金文と甲骨文などの当時の史料に基づき、周王朝の実像に迫ろうとしています。「金文」とは、青銅器の銘文のことです。
「周は、紀元前11世紀後半頃に殷王朝を倒すことで成立し、およそ800年後の前256年に滅んだ中国古代の王朝である。この間の時代は2つの時期に分けられる。前771年までの前半部を『西周』といい、動乱によって西周最後の幽王が敗死して以降の後半部を、『東周』と呼ぶ。東周の時代はまた通常春秋期と戦国期とに二分される」。
西周では、太公望や周公旦などの建国の功臣、東周では、孔子、孟子、老子といった諸子百家、斉の桓公や晋の文公ら春秋の五覇などが、よく知られています。
「周王朝のあり方を示すキーワードとなるのが『祀(し)』と『戎(じゅう)』である。・・・『戎』とは軍事を指す。もう一つの『祀』とは『まつり』、すなわち祖先の霊や天神地祇に対する祭祀を指す。祀はまた政(まつりごと)に通じる。当時の祭祀儀礼は政治と一体化しており、主君と臣下、あるいは一族間の関係を取り結ぶという役割を担っていた。そのため、軍事とともに『祀』もゆるがせにできない国家の大事と見なされていたのである」。
孔子は、夢に見るほど周公旦に憧れる一方で、その周公旦が生きた西周の世を、『論語』に見えるように『郁郁乎文哉』(盛大で華やかである)と評価し、『吾従周』(私は周に従おう』と述べています。孔子とその弟子たち儒家は、自分たちが生きる東周の世に西周の礼制を再現しようとしたのです。「ただし、西周の世やその礼制を理想としたとはいっても、既に西周の滅亡より数百年を経ており(孔子が亡くなったとされるのは前479年、西周の滅亡よりおよそ300年後のことである)、西周の礼制を忠実に再現し、取り入れることができたわけではない。・・・儒家の提示した礼制とは、当時の東周の礼制に、彼らが西周のものと信じる要素(その中には本当に西周に由来するものも多少は含まれていただろうが)を加えて復古的なものに仕立て上げ、体系化したものだったのである」。
やがて時代は移り、「秦王政すなわち始皇帝の時代に、他の諸侯国も秦によって滅ぼされ、前221年に秦による統一が成立」します。
殷から周へ、周から秦へという、栄枯盛衰の歴史の流れを俯瞰できる一冊です。