榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

天明3年の浅間山大噴火の火砕流に呑み込まれた鎌原村の悲劇・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1030)】

【amazon 『天明三年浅間大噴火』 カスタマーレビュー 2018年2月17日】 情熱的読書人間のないしょ話(1030)

スズメバチの巣が展示されています。ザボン(ブンタン)が実を付けています。ポインセチアは、ここまで大きくなることができるのですね。

閑話休題、『天明三年浅間大噴火――日本のポンペイ鎌原村発掘』(大石慎三郎著、角川選書。出版元品切れだが、amazonなどで入手可能)で取り上げられているのは、日本火山災害史ではもちろん、世界火山災害史でも第一級といわれる「天明の浅間山大噴火」です。

「『天明の浅間山大噴火』は天明3(1783)年4月8日(旧暦)に始まった。・・・(大きな噴火が続いたが)7月6・7・8日の最後の3日は、それこそ『筆舌につくし難し』というか、『言語に絶す』というか、それこそ、この世のものとは思われぬ激しいものであった」。

「天明3年の浅間押しによって、(浅間山麓の)鎌原(かんばら)村は総人口597人のうち466人が死亡、生き残った者は131人というほとんど壊滅的な大打撃をうける。この時の生存者にはもちろん他所奉公にでていた者、当日他村に行っていた者も含まれるが、村内にいて助かったのはこの観音堂に逃げあがった者のみであるというので、村民の観音堂信仰は大変篤く、現在に至るまで村の老人会は当番でこのお堂を守り続けているほどである。ところでこの観音堂は村落の西側、現在浅間白根火山ルートの走っている丘陵の東斜面の中腹にあり、村より一段高いところにある」。

「天明3年の悲劇の日、人々はわれ先にと必死になって観音堂めがけて駆けつけたはずである。もちろん(石段を)無事駆け上った人もあるが、いま一歩というところで、背後からおしよせた火砕流に呑まれた悲運の人もあるはずである」。

「この石段は約50段、現地表面から約5メートルのところで終わり、山土でかためた参道に続いていたが、その石段の最下部から2段目に1人、1段目に1人、顔は北に向けた形で人骨があらわれた。2段目に頭を置いた人に、1段目の人がおおいかぶさっているのではなくて、逆に1段目の人の上に2段目の人が乗っており、しかも、1段目の人の足は真直ぐうしろに伸びているのにたいし、2段目の方は腰のあたりで両足がひろがっているところから、1段目の人が、2段目の人を背負ったまま、ここで倒れたことが想定された。しかも2段目に頭をおいた上の人骨は老齢の女性、1段目のものは壮年の女性と判定されたが、それ以上のことは専門家の鑑定をまつ必要があった」。鑑定結果を踏まえ、この2人は、親子か、年の開いた姉妹であろうと記されています。

「難を免れて生き残ったのは131人であったが、そのうち38人は他所に奉公するなどして村を捨てたので、後に残ったのは93人であるが、彼らは賽の河原のようになった鎌原村跡に村を復旧することになった。この復旧作業には隣接する大笹村の長左衛門、干俣村の小兵衛、大戸村の安左衛門の3人の長者から、ひとからならぬ援助があった。彼ら3人は被災直後から生き残った村人たちを引きとって養い、事態が一応おちついた7月23日、旧村の上に小屋を2棟たててこれを収容、麦・粟・稗などを与えて食をつないでやった。やがて幕府からの援助の手もとどくようになったので、いよいよ本格的な復旧にとりかかることとなった。この時まず問題になったのは、家(家族)をどのように組みたてるかということであった。・・・『夫を失った女には、女房を流された男を、また子供を失った親には、親を失った子供を組み合わせて新しい家族をつくらせ、それを軸に村の復旧を進めた』と(幕府から派遣された根岸九郎左衛門が)その著『耳袋』のなかに書いている」。

この大爆発の火山灰が数年間に亘り成層圏に滞留して日光の照射を妨げたため、天明の飢饉を引き起こすのです。

発掘に当たった浅間山麓埋没村落総合調査会の事務局長を務めた著者の手になるだけに、随所に被災の生々しさが滲む一冊です。