榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

脚本家・山田太一の味わい深い晩年のエッセイ集・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1033)】

【amazon 『月日の残像』 カスタマーレビュー 2018年2月20日】 情熱的読書人間のないしょ話(1033)

あちこちで、ウメが芳香を漂わせています。因みに、本日の歩数は10,795でした。

閑話休題、『月日の残像』(山田太一著、新潮文庫)は、私の好きな脚本家・山田太一の晩年のエッセイ集です。

「減退」というタイトルのエッセイでは、著者自身の性欲減退が語られています。「七十にさしかかるころ、私は体の芯に大きな変化が来ているのを感じた。長いこと、異性を見ると、反射神経のように性欲で分別するところがあった。これは不随意筋のようなもので、いけないといったってどうなるものでもない。それは女性だって同じだろう。その針が動かなくなった。鈍くなった。どうでもよくなった。これは、ひそかな驚きだった。そういうことがあるのか、と思った。・・・私は減退が新鮮だった。別の世界へ足を踏み入れたぞ、という小さな興奮があった。負け惜しみだと笑われそうだし、幾分その通りかもしれないが、減退を意識しそれを受け入れると、肩の荷をおろしたような気持になった」。著者は正直な人ですね。それにしても、共感できる文章です。

「消えた先の夢」には。向田邦子、倉本聰が登場します。「向田さんは私より五歳上で、昭和三十三年(つまりテレビ放送が始まって六年目)に、はじめての脚本『ダイヤル110番』を書いてらっしゃるから生放送のころを御存じだったと思う。この春、倉本聰さんと話す機会があり、そのころの話が面白かった」。

「『私(すんだ脚本は)どんどん捨てちゃうの』という向田さんの言葉には、たちまち消えてしまう仕事に先手を打つような気持があったのではないか、と思う。もっとも『私倦きっぽいの』ともいってらしたし、そんなに屈折した言葉ではなかったのかもしれないけれど、どっちにしても私の反応は子ども染みていて、あんなに早く亡くなってしまうのなら、もうちょっと気の利いたことがいえなかったものかと、たまに思っている」。向田の自身の作品に対する姿勢が窺える興味深いエピソードです。

「この先の楽しみ」では、私の大好きなジョージ・ギッシングとその作品『ヘンリ・ライクロフトの私記』が取り上げられています。「ギッシングを思い出す。『ヘンリ・ライクロフトの私記』は、長いこと私の手の届くところにある一冊である。・・・たとえば読書について、若いころから大変な量の本を読んで来たといい、しかし<かつて読んだもののうちからわずかばかりの断片しか私は覚えていないのである>という。<今まで折にふれては貯えてきた知識を完全に自分のものにしていたならば、私はあえて自らを学者だと自負することもできよう>。しかし忘れてしまう。それでも死ぬまで<私は本を読みつづけることだろう、――そして忘れつづけることだろう>、<刻々にすぎてゆく瞬間瞬間の幸福を私はしみじみと感じる。人間としてこれ以上求めるものはなにもないと思う>。若かったら、そんなことをいっていられないだろうという人もいるかもしれない。しかし、私も引用ノートを多量につくった時期がありながら、それでも読書の大半は忘れている。そして、それでも、たぶん死ぬまで刻々の幸せのために本を読み続けてしまうことだろう」。

「しかしいまギッシングを思い出したのは『ヘンリ・ライクロフトの私記』の成立の事情についてである。本はギッシングがライクロフトという作家の死後、三冊のノートを発見して出版したという体裁をとっている。・・・ギッシングがいうように、その私記はすばらしい。それは実に穏やかで金にも困らない田園の中の幸福な晩年のノートである。しかし実際は、架空のライクロフトより十歳ほども若いギッシングの私記なのである。そのギッシングは、作家としても私生活でも不遇でつらい人生を生きていて、その出版の数ヶ月後<生前とおなじようにみすぼらしく悲劇的に、ギッシングは死んだ>というのである」。

私の一番の愛読書『ヘンリ・ライクロフトの私記』(ジョージ・ギッシング著、平井正穂訳、岩波文庫)が、敬愛する山田の愛読書という思いがけない一致に、嬉しくなってしまいました。