『六の宮の姫君』と『ヘンリ・ライクロフトの私記』の関係・・・【情熱的読書人間のないしょ話(25)】
日経新聞の読書欄の「本の小径」で、中村稔著『芥川龍之介考』を取り上げた宮川匡司の文章に目が止まりました。その中の、「かつて情を通わせた姫君が、落魄して死んでゆく姿を男が見届ける『六の宮の姫君』を、芥川の王朝小説の最高の名作と著者は評価する。『この女性の物語はたんに王朝の出来事ではない』『私たちの周辺にも見捨てられ、頼り、縋る人も場所もなく、孤独死する人々はいくらも存在する』。これは、芥川文学の現代性、普遍性を見つめてやまない言葉である」という一節を読んだ瞬間、久しぶりに『六の宮の姫君』(芥川龍之介著、新潮文庫『地獄変・偸盗』所収)を読み返したくなってしまったのです。
高貴な生まれではあるが、父母に先立たれ、生活が窮迫した姫君が、乳母の薦める中流貴族の男を受け入れます。「姫君は忍び音に泣き初めた。その男に肌身を任せるのは、不如意な暮しを扶ける為に、体を売るのも同様だつた。勿論それも世の中には多いと云う事は承知してゐた。が、現在さうなつて見ると、悲しさは又格別だつた」。「しかし姫君は何時の間にか、夜毎に男と会ふやうになつた。男は乳母の言葉通りやさしい心の持ち主だつた」。
しかし、この安穏な生活も、長くは続かないのです。姫君を妻にしたことを父に隠していた男が、陸奥守に任ぜられた父に付いて現地に赴くことになったからです。「しかし五年たてば任終ぢや。その時を楽しみに待つてたもれ」。
六年経っても、男は都に帰ってきません。そして、男が帰京したのは九年目の晩秋のことでした。「男は翌日から姫君を探しに、洛中を方々歩きまはつた。が、何処へどうしたのか、容易に行き方はわからなかつた」。やがて、男は窶れ変わり果てた姫君の臨終に立ち会うことになるのです。
この短篇『六の宮の姫君』を読み終わった時、私の頭に浮かんだのは、つい先日の読書会で「私の一番好きな本」として挙げた『ヘンリ・ライクロフトの私記』(ジョージ・ギッシング著、平井正穂訳、岩波文庫)でした。
著者のジョージ・ギッシングは、病弱の体を押して、貧困の中でこの書を書いたのですが、この本が出版された数カ月後に病死してしまいます。彼が主人公・ライクロフトに託して描いた理想的な引退生活・臨終とは、およそかけ離れた悲しい晩年・最期だったそうです。
人は誰でも、貧困や病気の中で最期を迎える虞があることを、今さらのように思い知らされた私でした。