本が好きで堪らない街の書店主が、客に自分の好きな本について語りかけている感じの本・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2479)】
我が家に毎日やって来るジョウビタキの雄(写真1)、散策中に出会ったジョウビタキの雌(写真2、3)をカメラに収めました。あちこちで、ウメ(写真4~13)が芳香を漂わせています。因みに、本日の歩数は13,312でした。
閑話休題、『米澤屋書店』(米澤穂信著、文藝春秋)は、本が好きで堪らない街の書店主が、客に自分の好きな本について語りかけている感じの本です。
厖大な書物が登場するが、とりわけ印象に残ったのは、この3冊です。
●『六の宮の姫君』(北村薫著)――
「私はこの本を、大学四年の春、古城の一角で、ちょうどいい大きさの石に腰かけて読みました。・・・当時私は物語を作って生きていこうと決意していましたが、ミステリを書き続けるかどうかは、少しだけ迷っていました。いまにしてみるとおこがましいことではありますが、もしかしてミステリにはあまり先がないのではないか、と思っていたのです。あらゆるトリックが出尽くしたので、もうミステリは出涸らしでしかあり得ない・・・という、時々見かける言説に与していたのではありません。・・・嬉しかった。『六の宮の姫君』で書かれていたのは、明らかに、文学の冒険です。それていて、間違いなくミステリだった。これが何を意味するか。――学問はミステリになり得る、ということです。学問というと高踏的ですが、私が言いたいのは要するに、好奇心の事です。知りたいという欲求と知るための方法を体系化したものが学問で、それがミステリになるならば、人間が何かを知りたいと思う時、それは凡そミステリたり得るということになる。つまり、『六の宮の姫君』は、ミステリに描けないものは何もないということを証明したのです。読み終えた文庫本を閉じて、私は、ミステリを書こうと決めました」。米澤穂信の作家人生を決定づけた本を読まずに済ませられるでしょうか。
●『シャム双子の謎』(エラリー・クイーン著)――
「ミステリは何よりも知と理の世界なのです。たとえ状況がどれほど切迫していても、解決が行われるならば皆がそれを聞く。この意味で最も典型的なのは『シャム双子の謎』でしょう。誰もがつっこんだはずです、『いやいや、いまそんな場合じゃないでしょ』と。しかしたとえ燃えさかる山火事が足元まで迫っていても、提示された謎の解明は果たされなければならないのです。ミステリでは火なんか怖くない。すべてが明らかになるまで業火はその場に留まり銃火は逸れて、噴火もちょっとだけ待ってくれます。たとえすべてを把握した名探偵がそれを語る前に死んでしまったとしても、どうぞご心配なく。あれが最後の名探偵とは思えない。謎が残っている限り、第二第三の名探偵が現れるだろう。かくして犯人が明かされるや『屁理屈捏ねやがって』というあの強烈無比なる思考停止に黙殺されることなく、たとえ作中に於いて裁かれないとしても読者の心中に於いて、事件は解決するのです。私にとってミステリを愛するというのは、必ずしもトリックやロジックを愛することと同値ではありません。本質的には、それは知と理が優越する空間を愛するということなのだろうと思うのです」。米澤がミステリを愛する理由は、私も共有しているものです。
●『九マイルは遠すぎる』(ハリイ・ケメルマン著)――
「文庫のあらすじに『本格ミステリのエッセンス』とある。まさにそういう一冊です。エッセンス、つまり精髄ですね。ミステリの骨組みを見るような感じがします。・・・(最初の一文からすべてが始まっているという)素晴らしさが頂点に達したのはどこか。私は、この本に入っている『エンド・プレイ』か『おしゃべり湯沸かし』だと思っています。読めば、『最初に出ているじゃないか。これは気づいてもよかったな・・・』と悔しくなる。そこがたまりません。つまり『九マイルは遠すぎる』という本には、この型の嚆矢と代表例の両方が含まれている。私はそう思います」。こういうアドヴァイスは、本当にありがたい。なお、この「嚆矢」は、表題作の『九マイルは遠すぎる』を指しています。
早速、この3冊を「読むべき本」リストに加えました。