榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

ストレートな表現が炸裂――塩野七生の映画を巡るエッセイ集・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1865)】

【amazon 『人びとのかたち』 カスタマーレビュー 2020年5月22日】 情熱的読書人間のないしょ話(1865)

カラーの白い仏炎苞が目を惹きます。シランが薄紫色、白色の花を付けています。あちこちで、ウスベニアオイが赤紫色の花を咲かせています。

閑話休題、『人びとのかたち』(塩野七生著、新潮文庫)は、映画を巡るエッセイ集です。

「おとなの純愛」は、こういう味わい深い言葉で結ばれています。「男に心から愛された経験をもつ女は一生孤独に苦しむことはない、と言ったのは詩人のリルケだったが、心から女を愛した経験をもった男の場合も、同じであるのかもしれない」。

「男女の友情」では、塩野のストレートな表現が炸裂しています。「セックス抜きで男女の愛情は成立しえるか、というテーマの追究にはまったく無関心の私でも、セックスこみでの男女の友情は成立しえるか、というテーマの追究ならば関心をもてると思うのだが。どこで誰が書いていたかは忘れてしまったが、私を思わず微苦笑させた一文を読んだことがある。『一度もベッドをともにしていない男というのは、女にとってはなんとも不安な存在だ。なぜなら、どの辺まで無理を言ってかまわないかを、計りようがないからである』。男女関係の距離を計る物差しを、女はベッドで手に入れる。手に入れてはじめて、男は『不安な存在』でなくなるのだろう」。

「女の恋」では、『モロッコ』のマレーネ・ディートリッヒが論じられています。「すべては彼女一人。この映画は、マレーネ・ディートリッヒの映画である。そして彼女くらい、オトナの女のみを演じつづけた女優もいなかった。その彼女が、外人部隊の一兵士に一目惚れする。・・・一目惚れというのは、若い女特有の現象ではない。女は、一目惚れする女としない女に二分されるとさえ、私は思っている。・・・アミー・ジョリーはなぜ、トム・ブラウンに一目惚れしたのか。美男だったからか。いや、それだけではないだろう。アミーは、モロッコにまで流れてくるほどだから、過去をもつ女である。過去とは、過去にあった出来事の集積ではない。単なる出来事の集積ならば、過去をもつとは言わない。他人の眼には見えない、いくつもの傷をもつということではないだろうか。そして、いくつもの傷をもつ女にとって何よりも避けねばならないことが、一目惚れからはじまる恋なのだったが・・・。結局、アミーは、出陣して行くトムの後を追う。彼女と同じ想いのアラブの女の群れに加わって、砂漠の向うに去って行くのだった。すべてはもっていても傷だけはもたず、それゆえに絶望とは無縁であった金持の紳士は捨てて」。私も、このラスト・シーンは、何度見ても、胸が熱くなります。

「どうしてまた、と、この映画を観た人は思ったであろう。私なら、こう答える。アミーは、トムの眼の奥に漂う絶望が、自分が追ってきたことで消え去るのを見たかったからだ、と。男の後を追うと決めた瞬間から、彼女の絶望は消えたのだ。残ったのは、男の絶望をも消すことだった。『たった、それだけ?』、『そう、たったそれだけ』。だが、そのたったそれだけで、女は生きていけるのである」。塩野の書くものからは冷静な女性という印象を受けるが、意外にロマンティックな女性なのかもしれませんね。

「官能」では、『夏の嵐』が取り上げられています。「ヴェネツィアの貴族の夫人がオーストリアの士官に恋する話で、舞台は水の都ヴェネツィア。・・・(原題の『センソ(官能)』が示しているように)これもあれも何もかも、『センソ』なのである。そして、この種の官能の極点は、やはり恋愛だろう。恋をすると、人はすべてに鋭敏になる。それまでは注意もしないで見過ごしてきたものや感じもしないできたことが、恋に落ちてしまったとたんに、まるで今はじめて出現したかのように見えるようになり、感じとれるようになる。それゆえに恋は、盲目であると同時に、どんなに精巧な眼鏡も補聴器もおよばないくらいの存在に、われわれを変えてしまうのである。そして、肉体的な快楽は、肉体のすべての部分があらゆる刺激に敏感に感応するように変った人間の、まったく当然すぎるくらいに当然な帰結にすぎない」。

「その夜以来、夫人は運河には落ちなかったが、恋には落ちてしまった。・・・(夫人役のアリダ・ヴァーリは)毒にも薬にもならない純情可憐派女優だった人で、『夏の嵐』の貴族の夫人役ではじめて、名実ともに女優になれた人である。その彼女が、色香も峠を越した女の自滅的な恋を見事に演じている。まったく、あの一夜でやめておけばよかったのだ、と私などは思う。だが、夫人の毎日は、あの夜を境にして一変してしまった。男を追う毎日に、男のことしか考えない日々に変ってしまったのである。だが、ファーリー・グレンジャー演ずる美男の士官は、俗に言う不誠実な男になるのだろう。おかげで女は、数々の屈辱に耐えねばならなくなる。同僚の士官たちの冷たいあざけりの視線にも耐えなければならなかったし、恋する相手の、これは何と呼ぶのだろう、お金や物をせびることにも耐え忍ぶというか、お金や物を贈り与えたことによって起きる心の動揺にも耐えるというか、そんな惨めな気持も味わねばならなくなった」。続いて。監督のルキノ・ヴィスコンティの狙いに話が及んでいくが、それはともかく、無性に『夏の嵐』という映画を見たくなってしまいました。

「八月の鯨」を読んだら、『八月の鯨』という映画も見たくなってしまいました。「待つものがあるということは、老人でなくても人の心を豊かにする。『八月の鯨』は、観る人の心を豊かにする映画作品である。老姉妹リビーとサラを演ずる往年の名花ベティ・デイビス(79歳)とリリアン・ギッシュ(93歳)をはじめとして・・・年齢を重ねることは、自分にやれることが見えてくる過程ではないかと思う。二十代は、何でもやれると思っている。三十代になると、まあやることを決める。三十にして立つ、というのだから。四十代、五十代になると、ますますはっきりと見えてくる。これを別の言い方で言うと、可能なことがしぼられてくることだ。四十にして惑わずとか五十にして天命を知るとか言うが、所詮は、自分の可能性の限界を『知る』ことであるにすぎない。知って、それを実現していくことではないだろうか」。

塩野の歴史物とは、かなり印象の異なる一冊です。