吉村昭と津村節子の夫婦関係のあり方が垣間見えるエッセイ・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1394)】
キセキレイをじっくり観察することができました。ハクセキレイをカメラに収めました。日本で一番小さなキツツキであるコゲラを見つけました。マガモの雄、雌が連れ立って泳いでいます。マガモの雄の後を雄の若鳥が付いて回っています。因みに、本日の歩数は10,634でした。
閑話休題、エッセイ集『蟹の縦ばい』(吉村昭著、中公文庫)に収録されている「健気な妻」と「さか立ち女房」を通して、吉村昭と津村節子の夫婦関係のあり方を垣間見ることができます。
「家の中もてきぱきと短い時間で処理し、身の回りも小綺麗にしていた。世話女房とは、おそらく家事を処理するのに巧みな女性で、そこから生じた余剰の時間を、夫の世話にふり向けることのできる妻を言うのだろう。・・・大学時代、一人の女子学生にまぎれもない世話女房としての表情を見出した。私はこの女子学生こそ自分の結婚の対象として幼い頃から探し求めていたものだと思い込み、積極的に接近した。彼女は、私と同じ大学の文芸部に属していて、文芸部の機関誌に小説を書いていた。私は、彼女にぼくの女房になれ、と申し渡した。が、彼女は、『結婚したら小説が書けなくなるからいやだ。一生独身で小説を書いていきたいのだ』と、言う。しかし、そんな小娘のタワ言で諦めるような私ではない。『結婚しても、大いに小説を書いてくれ。書けなくなるなんて迷信だ』と、熱心にかきくどいた。・・・私たちは、結婚した。その彼女が、現在の私の妻だ。さて、あらためて結婚以来十三年間をふり返ってみると、私の予想は、半ばはずれて半ば当ったといっていいようだ。はずれたのは、妻が小説を書きつづけ、今後も書きつづけるらしいということだ。しかも、私をさしおいて私が何度も逸していた文学賞を先に受けたことを考えると、大はずれということになる。だが、『必ず小説は書かせる』と婚約の条件として口にしただけに、私は、男としてなにも言えない立場に置かれている。当ったことというと、これは多分に痩せがまんのようにきこえるが、妻は、やはり世話女房型に属する女性だということだ。本質的に、確実に世話女房の部類に入る女である。・・・家事以外に仕事を持つ妻は、仕事にほとんどの時間をさかれてしまう。いい妻でありたいと思いながらも、それが出来ない仕組みになっている。しかし、それはそれで仕方がない。世話女房でありたいという切なる願いがあれば、自然とその健気さが夫に通じ、夫も満ち足りた気持になるにちがいない」。
「私には、小説を書く女を妻にしている意識はうすく、一人の女を妻にしているという気持しかない。それでなければ、夫婦として同じ屋根の下に生活できるわけがない。夫が妻に愛情を持つのは、むろん、異性としての魅力を見出しているからである。そして、私も決して例外ではなく、彼女に異性としての魅力を見出している。それは『アバタもエクボ』式のほとんど盲目に近いベタ惚れの域に入るものらしい。・・・私にとって彼女は、女房というより恋人に近い。結婚後十三年もたつのだが、彼女からはその年月が感じられない。彼女は、いつまでたっても娘時代の他愛ない幼さを持っている。・・・夫にとって、家庭は、港のような場所である。妻が、いつも新鮮であるに越したことはない。・・・或る日外出先から帰った私は、妻が部屋の隅で逆立ちしているのをみた。彼女の友人から、健康法の一つとしてすすめられたのだというが、彼女は、逆立ちしながら私を見ると狼狽して横に倒れた。彼女の顔は、赤く染っていた。『亭主なんだから恥しがることなんかないじゃねえか。水臭えぞ』と私は言ったが、そんな彼女が私にはひどく好ましいものに感じられるのだ」。
読んでいる私も、ほのぼのとした気持ちになってしまいました。吉村の考える理想の妻像、夫婦のあり方が、私と完全に一致しているということは、私が時代後れの古い人間ということでしょうか。