榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

教科書では窺い知れない清少納言の女心・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1029)】

【amazon 『リンボウ先生のうふふ枕草子』 カスタマーレビュー 2018年2月16日】 情熱的読書人間のないしょ話(1029)

あちこちで、雛人形を見かけます。桃の節句が近づいてきましたね。

閑話休題、『リンボウ先生のうふふ枕草子』(林望著、祥伝社。出版元品切れだが、amazonなどで入手可能)では、私たちが教科書で知っている清少納言とは異なる清少納言の姿を目にすることができます。

『枕草子』を読み込むと、著者の言うとおり、「にわかに清少納言という歴史上の人物が、ぐぐぐっと近づいてきて、つい目の前に温かな体温をたたえて息づいているという感じがしてくる。ああ、清少納言も女だったなあ、と、その性愛生活なども含めて、生々しく立ち現われてくるのである」。

「『暁の別れ』は未練たっぷりでいてほしい」の章は、原文のこういう一節を扱っています。<――男というものは、この暁の別れのときの様子が肝心で、ここぞとばかり情緒纏綿とした様子であってほしい。たとえば、こんなふうに。自分からさっさと起きたりしないで、なんだか知らないけれどいつまでも寝ていたいというような様子で寝床にいるところを、女のほうから、強いてせっついて『ほら、もう夜が明けちゃうわよ。ね、人に見られたら大変でしょ、起きてね』などと言わせて、そう言われて初めて、大きな溜め息なんかついたりしている、その様子は、『ああ、やっぱりもっといっしょにここに寝て居たいのね』と女に思わせてくれる、そうでなくてはね・・・。指貫(平安貴族のゆるやかなズボン)なんかも、さっさと穿かないで、いつまでも下着姿で座ったまま、それで、すっと近づいてきて、夜のうちに交わした睦言の続きみたいなことを、女の耳もとにささやいて・・・、そんなことをしながら、女の気付かないうちに、いつのまにか、ひとりで帯なんか結んでいるらしい>。

「ああ、生々しいなあ、と、私は心の底から思う。なるほど、帰っていく男の服装はだらしないほうがいいじゃない、とつぶやく清少納言の真意はこういうことだったかと、しっくり得心が行く。はたして、彼女の実経験のなかで、こんな絵に描いたような『いい男』がいたのかどうか、たぶん、いたのだろう。そうして、もし恋人と暁に別れなくてはいけないと前提するなら、やっぱり男たるもの、こんなふうであってほしいと願うのは、蓋し当然のなかの当然というものだろうと、女ならぬ身の私も思う」。私も同感です。

「口喧嘩のあと」の章は、おかしみが漂う一節です。<――女のほうから、いいかげん愛想の尽きてきた、そういう男と、まあ言いたい放題の口喧嘩をして、こんなヤツと一つ布団で寝るのはご免だわ、とわざと離れて寝ようとすると、男のほうから、『なあ、ちょっとこっち来いよ』なんて引き寄せようとする。そんなの、冗談じゃないわ、ああ嫌だ嫌だと意地でもいっしょには寝てやらないっと、振りほどく。こうなれば、そっちがそうなら、勝手にしろバカヤロ、とばかりくるっと自分だけ温かい掛けものにくるまって、男は寝てしまう。・・・だんだんと夜が更けてくる、頭も冷えてくると、やっぱり寒い。・・・まんじりともせずに我慢して臥せっていると、どこか家の奥のほうから、ギギギーッ、なんて怪しげな物音がしてきたりして、恐ろしくなって、やおらその男のそばまでよろめき寄って行って、ヤツめが独り占めしている掛けものに、むりやり体を差し入れていく。そのときの最悪なるかっこわるさといったら・・・>。

「おそらく、これも清少納言自身の経験談ではないかと思わずにはいられない。それでなければ、どうしてこれほどまでにありありと見てきたように、鮮やかに書けるものであろう。・・・いくら強がっても、女は女、こういう身の毛もよだつような夜の闇の恐怖には、やっぱり弱い。そこが女のかわいいところで、その弱い女に、しかし、いまや軽蔑されてしまっている男でも、こんなときには、ちょっと頼もしい感じもあり、なにより、誰でもあれ、冬の寒さは人肌で温めあうのがもっとも快いということを、こういう描写が正直に物語っている。面白いなあ、しかし。清少納言ほどの女でも、やっぱり優しい女らしいところがあるよなあ、と、私などはどうしたって嬉しくなってしまうのである」。私も嬉しくなってしまいました。

「喧嘩別れ」の章には、心憎い男が登場します。<――いつでも、暁に帰っていったあとで、すぐに『きぬぎぬの文』をよこす人が、ある日喧嘩をして、その別れ際に、『なにいってんだ。もうおまえなんかにものを言っても始まらないよ、もうこれっきりにしよう』と言い捨てて、帰ってしまった。その朝はもちろん、翌日になっても、うんともすんとも言ってこない。そうなると、私のほうでは、夜が明ければいつだってお使いの者がきぬぎぬの文を持ってきたのに、それが来ないのはなんだか心に穴が開いたように寂しいなあ、と思って、『いくらなんでも、割り切り過ぎてやしないかしら』などと、ぶつぶつ文句を言って過ごしていた。・・・(雨がじゃあじゃあ降っている翌日)『これはもう、いよいよダメかもなあ』などと独り言を言いながら、それでも未練に外がよく見えるあたりに座って文の到来を待つともなく待っていたら・・・、その夕ぐれになって、傘を差した男が文を持ってやって来たのだった。もう夢中になって大急ぎで封を開けてみたら、ただ、『水増す雨の』という五文字だけが書いてあった。ふふふ、なんて心憎い、ごちゃごちゃとたくさんの歌など書きつけてくるより、こういうのはほんとに洒落てて素敵だなあ>。

「この章段も、私のこよなく愛する文章で、ほんとに素敵だと思う。さんざんにじらしてから、洒落に洒落た手紙をよこす男も素敵だけれど、それを待ちながら『端のかた』に居暮らしたということを、正直に、しみじみと、しかもさりげなく書いている清少納言の筆遣いも素敵である。・・・もう夢中になって、その文を掻き抱き、小躍りでもしたくなった少納言の気持ちが、如実に推し量られる文のくだりである」。

「自身は、けっこうな男好きであって、それなりに色めいた経験も十分にあった清少納言」がぐぐぐっと身近に感じられるようになる一冊です。