榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

大海人皇子(天武天皇)の妻であったが今は天智天皇の妻である額田王と大海人の間で交わされた歌の真意は・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2402)】

【読書クラブ 本好きですか? 2021年11月14日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2402)

ツバキ(写真1、2)、ルリマツリ(写真3)、ランタナ・カマラ(シチヘンゲ。写真4)、セイヨウタンポポ(写真5、6)が咲いています。カラスウリ(写真7、8)、マンリョウ(写真9)、ノシラン(写真10)が実を付けています。

閑話休題、『女たちの壬申の乱』(水谷千秋著、文春新書)で取り上げられている女性たちの中で、とりわけ興味深いのは、天智天皇と天武天皇に愛された額田王と、天智の娘で天武の妻となった鸕野皇女(持統天皇)です。

●弟・天武が兄・天智より年上という説――
「大和岩雄氏が天武65歳死去説を唱え、実は大海人皇子(天武)のほうが中大兄(天智)よりも年上であったという説、さらには大海人皇子は皇極天皇が前夫高向王との間に産んだ漢皇子と同一人物であるという説を主張した。・・・話としては面白いのだが、学問的には信じるに足るだけの根拠は乏しいと言わざるを得ない。『日本書紀』に記載がないからといって、依るべき古い史料に基づいて書かれているとも思えない後代の史書に頼るのは適切ではなかった。・・・考えてみれば、この当時の人物でも亡くなった時の年齢が『日本書紀』に明記されている例は案外少ない。持統天皇も皇極天皇も年齢は記されていない。・・・これらからすると、大海人皇子の年齢がわからないのもそれほど不審なことでないのであって、『日本書紀』がことさら真実を隠蔽しようとしているとは思えないのである。・・・中大兄・間人皇女・大海人が、皇極と舒明との間に産まれた同母の兄妹弟であるとする『日本書紀』の記載を否定できるだけの根拠はないことを明記しておきたい」。私は、長年、大和岩雄説が気になっていたが、本書のおかげですっきりすることができました。

●額田王――
「古来、壬申の乱の原因を額田王をめぐる天智と大海人皇子の三角関係の愛憎――始め大海人皇子の妻だった額田王を、のちに天智が奪った――に求める説がある。額田王は、初期万葉を代表する女性歌人として名高く、『万葉集』に13首の名歌を残す。しかし詳しい経歴は『万葉集』にも『日本書紀』にも記されておらず、生没年も不明である。・・・最初、彼女は大海人皇子と婚姻関係を結び、この間に十市皇女を産む。しかしその後、大海人とは別れ、天智天皇(中大兄)の恋人となったと考えられている。この時代を代表する傑出した女性歌人額田王を、天智天皇と大海人皇子兄弟が愛し、この間に確執があったのではないか。それが壬申の乱の原因ではないのか」。

「最初にそう述べたのは、江戸時代の代表的な国学者伴信友『長等の山風』で、以来長く通説とされてきた。この説には、『万葉集』の額田王や天智天皇の歌の解釈にその根拠が求められてきた。近年は、この説を支持する研究者はほとんどいなくなったが、それはこれらの歌の解釈について、学界の趨勢が大きく変化したからでもある」。

天智天皇が催した遊猟で、額田王が詠んだ「あかねさす 紫草野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る」の歌に、大海人皇子が「紫草の にほへる妹を にくくあらば 人妻故に 我恋ひめやも」と返したことは、よく知られています。「天皇や王族、貴族たちが散り散りになって散策気分で獲物を探しているところ、額田王を遠くから見つけた大海人皇子が大きく手を振って声をかけようとしたのである。額田王は視界に野守が居るのを見つけて恥じらい、或いは危ぶみ、気づかぬ風を装おうとしたのだった。喜びながらも、その派手なふるまいを咎めるような口ぶりがうかがえる。これに対する大海人皇子の答歌はこうだ。紫草のように匂うあなたをもし憎く思うなら、どうして人妻であると知りながら恋することがありましょうや。人妻であってもあなたを恋すると直截に表現するのである。これは、今は人の妻となったかつての妻に対して、あらためて求愛した内容とも受け取れよう。額田王もそれを憎からず思っているようにみえる」。

この歌のやり取りは、池田弥三郎・山本健吉の説以来、本気で恋愛感情を吐露したものではなく、遊猟の後の宴の席で座を盛り上げるために戯れに詠まれたものだというのが、通説となりました。

著者は、この座興説に異議を唱えています。「私はこの時、上座にいた天智がどのような顔をしていたか、知りたく思う。彼は無言だった。あまり面白くない顔をしていたのではないか。考えてみると、大海人皇子という人は天智の朝廷において、他にも場を凍り付かせるような言動をした例がある。・・・遊猟での振る舞い、その後の宴席での歌のやり取りにも、そうした一種傲岸不遜なところが顔を覗かせているように私は思える。兄の驚くさま、怒るさまをあえて引き出している(挑発しているのかもしれぬ)ようにも見える。試していたともいえるだろう。この歌のやり取りは単なる宴席の座興とは思われないのであって、一見そのような装いを凝らしながらも、その奥にはやはりこの兄弟の確執が秘められているように私には思われる」。

「たしかに額田王はあれほどの堂々たる歌を詠んだ大詩人である。決して意志が弱く、男性に流され、悲恋に泣くような女性ではない。それでなければ、天智と天武、二人の英傑に愛されるはずがないではないか。中年になってさらに魅力を増した女性だったに違いないと私も思う」。

「作家田辺聖子氏のこの歌の感想を紹介したい。『額田も大海人も40前後の中年であったろう。したたかで世故たけたかつての恋人同士は、ユーモアでもって巧妙にカムフラージュしつつ、消えやらぬ愛を戯れ交す。まことにのびのびとした大人の恋歌である』。右の解釈に私も近い」。私も、田辺、水谷の解釈に与したくなってきました。

●持統天皇――
「持統すなわち鸕野皇女は、天智崩御の折、夫大海人皇子と共に吉野に居た。葬儀にもかかわらず、近江宮へ帰ることもなかった。近江を去り、夫と共に吉野へ行ったとき、彼女は父とも近江朝廷とも決別し、夫と運命を共にする決意を既に固めていたのであろう。2カ月後、父崩御の報を聞いても彼女の決意は揺らぐことはなかった」。