戦国時代は応仁の乱から始まったという定説に対する異議申し立ての書・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1048)】
自然観察会に参加しました。初めてシメをカメラに収めることができました。ハクセキレイ、マガモ(雄、雌)、ヒドリガモ(雄、雌)、コガモ(雄、雌)、オオバンを観察することができました。コサギが飛んでいます。ニホンアカガエルの卵塊が見つかりました。モンシロチョウが飛び回っています。ナノハナ(セイヨウアブラナ)が咲いています。因みに、本日の歩数は24,864でした。
閑話休題、戦国時代は応仁の乱から始まったという定説に異議を申し立てる書が出現しました。『享徳の乱――中世東国の「三十年戦争」』(峰岸純夫著、講談社選書メチエ)がそれです。
本書の主張は、「戦国時代は応仁・文明の乱より13年早く、関東から始まった」、「応仁・文明の乱は『関東の大乱』が波及して起きたものである』――の2点です。なお、著者は、この関東の大乱を「享徳の乱」と名づけています。
「鎌倉時代後期の建長4(1252)年に宮将軍として宗尊親王が鎌倉に下向したとき、その補佐として上杉重房が従った。この上杉氏は、やがて足利氏と強力な主従関係を結び、関東では足利氏の有力家臣となった。その後に上杉氏が山内(やまのうち)・扇谷(おうぎがやつ)・犬懸(いぬかけ)・詫間(たくま)など、屋敷を構えた鎌倉内の地名を称する一族に分かれていった。さらに山内上杉氏からは越後上杉氏が分出する。各家に分かれた関東の上杉氏の家長のなかから、その能力に応じて関東管領が任ぜられたが、時代が下るにつれ上野・武蔵を中心に勢力を有する長尾氏や大石氏を従えた山内上杉氏が、その地位を独占するようになった。また、上杉氏に従って鎌倉に下向した京侍たちもそのまま関東に移住し、各家の家宰(執事)となったと推定される。たとえば太田氏は扇谷上杉氏の家宰となり、また相模国守護代として勢力を築き、鶴岡八幡宮寺など鎌倉の寺社の所領支配に深く関与していた」。足利氏と上杉氏の関係、さまざまな上杉氏が存在した理由がよく分かりました。
「建武政権が打倒され、南北朝内乱のなかから足利氏の全国政権が成立する。しかし、その実態も京都・鎌倉による分割支配であった。尊氏・義詮の父子は相次いで征夷代将軍(将軍)となり京都に幕府を形成、義満以降に続く。一方、鎌倉府には尊氏の弟直義、その死後には義詮の弟の基氏が継承し、その子孫が鎌倉公方として関東十ヵ国と奥羽を支配下におさめた。つまりは二代にわたる兄弟による東西支配がおこなわれ、それ以後は端的にいえば「兄の国」「弟の国」が併存して日本列島を支配下におさめていたのである」。将軍と鎌倉公方の関係が要領よく説明されています。
「歴代の鎌倉公方には京都の危機に便乗して将軍に取って代わろうとする野心があり、それを諫める関東管領を疎んずる傾向が強かった」。
「『関東の大乱』というのは享徳3(1454)年12月、鎌倉(古河)公方の足利成氏が補佐役である関東管領の上杉憲忠を自邸に招いて誅殺した事件を発端として内乱が発生し、以後30年近くにわたって東国が混乱をきわめた事態を指す。この内乱は、単に関東における古河公方と上杉方の対立ではなく、その本質は上杉氏を支える京の幕府=足利義政政権が古河公方打倒に乗り出した『東西戦争』である」。将軍家の足利氏一族内の権力闘争に止まらず、関東管領職の上杉氏一族内の勢力争い、上杉氏の家宰連中の勢力争いも複雑に絡み合っていたため、享徳の乱は長期間、続いたのです。
享徳の乱の後半の主役は長尾景春という武将と、これに対峙した太田資長(道灌)です。長尾氏の家宰職の継承を巡り景春が謀叛を起こしたことで、関東の混乱が広がります。この間の経緯を知るのに欠かせない史料が『太田道灌状』です。「この乱で幕府・上杉方として(対景春戦で)活躍した太田資長(道灌)が、文明12(1480)年11月28日にみずからの戦功を書き上げて山内上杉顕定家臣の高瀬民部少輔に送った書状である。書状には現状の問題点が指摘されると同時に、長尾景春の反乱にたいする対応などを中心に太田道真・道灌父子のこれまでの功績が詳細に述べられる。別名『道灌長状』ともいうように長文の内容であり、道灌が関与した合戦の様相が網羅されている」。太田道灌は文武両道に通じた、私の好きな武将です。
「山内上杉氏の家宰になれなかった鬱憤を語る景春。道灌はそのなだめ役となった。しかし、景春がともに起つことを要請してきた段階で、道灌はそれを拒絶、以後は敵味方に分かれて戦うこととなる」。
「武蔵江戸城の城代で扇谷上杉氏の家臣である太田道真・道灌父子は、享徳の乱の過程で大活躍し、その後半の過程で道灌は、反乱を起こした長尾景春に味方した武蔵東部の大勢力の豊島氏を攻め滅ぼし、また講和に反対した武蔵千葉氏を制圧するなど大きな功績をあげた。つまり道灌は景春打倒の最大の功労者である」。
「家臣の功績を喜ばないばかりかその勢力拡大を恐れた扇谷上杉定正は、文明18(1486)年7月26日に相模の守護所である糟屋(現・神奈川県伊勢原市)の館に道灌を招いて殺害した。・・・このとき、道灌は『当方滅亡』と叫んだという。当方とは『こちら側』すなわち扇谷上杉氏のことである。自分がいなくなれば扇谷上杉氏などおしまいだということである。最期にあってなお、強烈な自負であるといえよう」。道灌の無念さが伝わってきます。
興味深い内容を伴った、説得力のある一冊です。