いつかやって来る「死」を、おたおたしながら考える(第4話)――マルティン・ハイデガーは「死」をどう捉え、いかに生きるべきと考えたのか・・・【続・独りよがりの読書論(40)】
挑戦
私がマルティン・ハイデガーを哲学者の中で一番重要視するのは、哲学の最重要テーマである「死」に真っ向から取り組んでいるからである。死を真剣に考えようとする者にとって、ハイデガーが37歳の時、著した『存在と時間』(マルティン・ハイデガー著、熊野純彦訳、岩波文庫、全4冊)を避けて通るわけにはいかない。難解と言われていることは承知の上で、勇気を奮って挑戦してみよう。
3つの作戦
この挑戦に当たっては、予め3つの作戦を立てた。第1は、『存在と時間』は未完で、一番重要なことは書かれずに終わってしまったとか、これより後に出版された著作と『存在と時間』の思想には懸隔があるといった識者の見解には耳を塞ぐこと。第2は、ハイデガー独特の哲学的言い回しや用語にはあまり拘らずに、一気に本丸を衝くこと。第3は、ハイデガーが『存在と時間』で一番言いたかったことは何かを、我武者羅に掴み取ること。
私の理解
乱暴にまとめることが許されるとして、私の理解するところでは、ハイデガーが言いたいことは、こういうことではなかろうか。人間は死を恐れるあまり、日常生活では忘れた振りをするなど、敢えて死を考えないようにして生きているが、こういう生き方は間違っている。生とは、死を含めて生なのだ。そう覚悟を決めて生きれば、人生を充実させることができる。その際の拠り所とすべきは良心である。
人間は誰でも、程度の差はあるにしても、死を恐れている。普段は忙しい日常生活に追われ、死のことを忘れていても、突如、ふっと忍び寄る死の恐怖に取り憑かれ眠れなくなることは、多くの人が経験したことだろう。
ハイデガーの「私たちは時間的存在である」という言葉は、私たちの生には死という終わりがあり、無限の生を生きることはできないことを意味している。しかし、人々は死をないものとして忘れたように振る舞い、お喋りをしながら誤魔化して生きようとする。そういう生き方をハイデガーは「非本来的な生き方」と呼ぶ。これとは逆の「本来的な生き方」とは、人生の有限性に気づき、死を意識しながら生きることだと強調している。死の恐怖を忘れ去ろうとするのではなく、逆に直視して生きる活力に変換していこうと説いているのである。
自分の死は自分で引き受けるしかなく、誰にも代わってもらうわけにはいかない。それどころか、自分を含め人間であれば、誰もが例外なく死ぬのである。自分の死に真正面から向き合うことによって、本来あるべき自分を回復することができると、ハイデガーは私たちを励ましているのだ。さらに言えば、限りある人生だからこそ、生きている一日一日を大切に過ごさねばならないと言っているのである。
轟孝夫の手助け
私の理解が独りよがりで、『存在と時間』の本質に対して誤解を生じさせるようなことがあってはいけないので、『ハイデガー「存在と時間」入門』(轟孝夫著、講談社現代新書)という入門書の力を借りようという魂胆を抱いた。
「現存在の存在は死によって完結するのだから、この死という終わりこそが、まさに現存在の全体を境界づけるものである。したがって、現存在の全体存在を解明するためには、死を実存論的に規定しなければならない、こうハイデガーは述べる。このように『存在と時間』では、現存在をその全体性において捉えるという、あくまで実存論的な問題設定として、死が視野に入ってくる」。
「ハイデガーは、現存在とは生まれたときからすでに死にうる存在であることに注目する。生きているということは死にうるということなのであり、『死は現存在が存在するやいなや引き受ける一つのあり方』なのである。ハイデガーはこのように、生そのものに死が本質的に属していることを指摘した上で、現存在とは『死へと関わる存在』であると規定する。つまり生きているということ自体が、すでに死との関わりそのものなのだ。現存在の終わりは、本人にとって、そのものを目の当たりにするような仕方で経験されることはない。しかしわれわれは、実際に経験するまでもなく、自分が死にうることを知っている。だからこそ、われわれは死を恐れ、それを回避しようとしたり、もしくは自殺という仕方によってあえてそこに赴いたりもするわけだ。このように死は、われわれが死んだときにはじめて関わりをもつものではなく、生きているうちからすでにわれわれのあり方を、何らかの仕方で規定している。つまりそのようなものである死にどのように向き合うかが、われわれの生き方の質を定める。これからハイデガーが行おうとするのは、すでにわれわれが生きているうちから死に関わっていることを認めた上で、そうした死がわれわれに対してどのように現れているのかを現象学的に記述することである」。
「現存在は『死に対する自由』において自分自身であることができるのである。このように死に対して自由になることは、究極の自己放棄を意味する。そのことによって、自分一個の利害を離れ、今、自分の真になすべきことへと開かれることが可能となる。要するに、現存在は死を辞さないということ、まさに死ぬことができるということにおいて、真に自分自身でありうるのだ」。
因みに、頻出する「現存在」という用語を、私は自己流で「私という人間」と解している。
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