『魏志』「倭人伝」は、陳寿が時の皇帝の胸底を忖度して記したものだった・・・【情熱の本箱(236)】
驚愕
私は、53年間に亘り、邪馬台国論争に関する主要な著作には必ず目を通すようにしてきた。今回、『決定版 邪馬台国の全解決――中国「正史」がすべてを解いていた』(孫栄健著、言視舎)を読んで驚愕した。長らく未決着であった邪馬台国論争に終止符を打つ書が、遂に出現したと確信したからである。
争点
1.邪馬台国はどこにあったか(九州か、大和(近畿)か、その他か)。過去の論争は、「倭人伝」の最も矛盾する部分、すなわち、地理記事の「方位」と「里程」のどちらを信用するかの対決だった。
2.一大率とは何者か。
3.卑弥呼の墓はどこにあるか。
結論
1ー1.邪馬台国は、3世紀の、女王を盟主とする九州北部(福岡県福岡市から春日市の辺りの)三十国の連合体であり、女王の都があった所は奴国だった。「万二千余里」は帯方郡から女王国までの里数で、「水行十日陸行一月」は帯方郡から女王国までの所要日数を表したもので、両者を合計すべきではない。
1ー2.女王の宮殿は、福岡県福岡市と糸島市の境に位置する高祖山(標高416m)の頂にあった。
2.倭王と伊都国王と一大率と卑弥呼の男弟は同一人物だった。「卑弥呼の死の直後に立った『男王』が誰かも、わかりきった話となる。卑弥呼の『男弟』の、『伊都国王』なのだ。『男弟』が『男王』なのだ。それは『一大率』であり、女王を『佐治国』しながら伊都国に『常治』し、諸国を検察し、畏憚させた人物、名は『難升米』なのだ。すこし文章的交通整理をしたが、その視座から『倭人伝』を読み直すと、話はじつにスーッとおさまる」。
3.伊都国の故地――福岡県糸島市の前原町の平原弥生遺跡が、卑弥呼の墓と推定される。「『露布の原理』が、この墓にも当てはまると仮定すれば、『径百余歩(145メートル)』の墓は、実は『径十余歩』となり、直径が、実際は約14.5メートル程度になる。同じ論法で『百余人』の徇葬者も、実数は十数人ではなかったか」。平原遺跡の西のものは、中央の方形部は東西17m、南北12mで、東のものは、東西13m、南北8mあって、周囲の溝からは、寝た状態で16人の殉葬者が推察されるという。「『卑弥呼の墓』の条件の一つは『殉葬者のあること』だが、日本国内の弥生遺跡では、殉葬者のある遺跡は、平原遺跡を除くと一例も発見されていない。●女性であり、●殉葬者がある、となれば、もう答は一つしかないかも知れない。この平原の遺跡は、三種の神器と同じ、鏡、玉、剣を組み合わせた副葬品を持ち、その被葬者は、女性ではなかったかと推測されている」。
解決への糸口
『魏志』「倭人伝」は、3世紀の晋王朝の史官・陳寿が記したものだから、彼が、どういう状況下で、どういう気持ちで書いたのかを知らねばならない。
陳寿も中国史書に共通する独特の「春秋の筆法」という記述原理を適用したという著者の指摘は、画期的で、説得力がある。「『筆法』や『春秋学』といっても、東洋史に詳しくない人には全然ピンとこないだろう。中国史書には『筆法』という独特の文章術(レトリック)がある」。「『春秋の筆法』を簡単に言えば、『文を規則的に矛盾させながら、その奥に真意を語る』ということだ。したがって史書著者の真意は、文の表面の割り切った言葉としては必ずしも現われない。捕捉しにくい、複雑で婉曲な文章術なのだ」。「あえて『誤った用字、表現』を用い、文のルールを破り、それによって、文の裏に真意を秘める。野球でいえば単純な直球ではなく、カーブやシュートのような高等技術だ。ストレートのつもりでバットを振ると、大きく空振りしてしまう」。「こうした、二重人格的な面が、中国の史書には伝統的にあった」。
当時は、「露布」の仕組み、すなわち、「数字を10倍」して表現する記述原理があり、陳寿はこれを女王国への里数記事に適用したというのだ。例えば、末盧国(唐津市の桜馬場遺跡)~伊都国(福岡県糸島郡の平原弥生遺跡)間の距離は「五百里(約218km)」と記されているが、実際は24.5kmしかないので、10倍に近い「誇大」が見られる。これが「誇大里数」(学者によっては「短里」)と呼ばれるものである。「倭国をより遠くの大きな国と印象させればさせるほど、魏の天子の威徳を人民に感じさせる効果があったことは言うまでもない。当時は、魏・呉・蜀の三国の、三つ巴の大乱戦の最中だった。大いに外交成果を誇示する必要もあったろう」。「『誇大』な『万二千余里』の実数はその10分の1、『千二百余里』(約520キロ)なのだ。郡より女王国まで、韓国のソウル附近より福岡県の福岡市、博多平野までは『魏志』は、実は、約520キロだと言っていたのだ」。この「万二千余里」(約520km)に合致するのは、奴国なのである。
中国史書には「前史を継ぐ」という原則があるので、『魏志』が含まれる『三国志』の後史『後漢書』と『晋書』の解読結果との照合が必要だというのである。前史とは、その史書が扱う時代より一つ前の時代を扱う史書のことで、『後漢書』と『晋書』にとっては『三国志』が前史となる。つまり、『魏志』「倭人伝」の表現の矛盾する部分を、『後漢書』「倭伝」と『晋書』「倭人伝」がどのように書いているか、どう解釈しているかを調べることが重要となるのである。「『後漢書』と『晋書』が、『魏志』<倭人伝>を素材として利用しつつ、他面、異質なものを混入させ、表現を何ゆえか書き改め、『魏志』の文との間に異同の生じているのも、また事実だ」。「奴国が『後漢書』では、なぜか『極南』と強調されるような事実だ」。
証明
どう計算すれば、●帯方郡より女王国までが「万二千余里」であり、●三十国の総戸数が「七万」となるのか。
「●『晋書』の『魏時三十国=七万』より『魏志』の『邪馬台国=七万余戸』に注目し、『魏時三十国=七万=邪馬台国』と仮説した。邪馬台国総称論(女王連合)だ。●このことは『魏志』の行程記事において、『里数記事と日数記事が連続しない』ことを示唆する。ということは、共に郡からの距離と所要日数であることを推測させる。そこで『後漢書』との比較。『晋書』流に読んで、『魏志』に書き出される国々のうち一番南になるのはどの国か。まさに、里数記事の終わりの『奴国が極南』となるのだ」。
「奴国が『万二千余里』の数値ときっちり一致する。●『郡より女王国に至る万二千余里』は、里数記事の内に収まり、●里数記事の最南(自女王国以北)にあった奴国と、完全に符合する。『後漢書』の『極南の国』と『女王の都する所』は、ぴたりと一致するのだ」。
「邪馬台国は女王連合三十国の総称であって、実は女王国とは、その中心となる『女王の都する所』の国(三十国のうちの一国)かも知れないことも、とりあえず仮説した。その女王の都の条件は、●里数記事(『晋書』戸数論より)で略載の最南(自女王国以北より)にあり、●帯方郡より『万二千余里』にあたることだった。そして今、これらは正確に一つの国を示している。それは、戸数が『二万余戸』の最大国だ。弥生時代で質・量ともに最大の遺跡群をもつ奴国、現在の福岡市の周辺なのだ。紀元57年にも、漢王朝に入貢し、時の光武帝より『漢倭奴国王』の金印を受けたあの奴国、言い換えれば1世紀の倭国の中心国だったグループが、3世紀の女王の時代も、倭国の中心国だったと結論できる」。
背景
陳寿は、時の皇帝の胸底を忖度せねばならない立場に置かれていた。「(魏の軍司令官として朝鮮半島を平定した)軍事上の成功は、司馬懿(仲達)を政界の中心に押し上げた。239年、魏の皇帝はなくなるが、司馬懿は、8歳の新帝の補佐役として太傅となり、魏王朝の最高位者として、以後の魏の政治と軍事の中心人物となる。やがて249年、この政治的地盤を元手に、政権の奪取を図りクーデターを決行。曹一族を倒して魏の実権を独占した。251年のその没後は、息子の司馬師・司馬昭があいついで政権を執り、265年になると、司馬昭の子の司馬炎が魏に替って晋朝を開いた。この司馬炎に、陳寿は仕えたのだ」。司馬懿は晋王朝の事実上の創始者なのである。
「『三国志』に唯一の地理誌である『魏志』<東夷伝>が立てられたのも、こうした事情による。それは単なる外国の話ではなく、実に、皇帝の祖父の偉大さを立証する、司馬氏の晴れの舞台の物語だった。したがって、この地方について陳寿が書けば書くほど、皇帝の祖父の功績、晋王朝の正当性が顕揚される効果がある」。「景初2(238)年の司馬軍団の極東アジア遠征の結果、倭の女王は司馬軍団の仲介によって魏に使節団を送った」。「邪馬台国との通交は、晋王朝の事実上の創建者である大尉(だいい。軍総司令官)司馬懿の遼東半島攻略と、韓と倭を支配下においた功績の結果だ。『万二千余里』も南へ南への『水行陸行』の地理情報攪乱も、かなりの策謀家である司馬懿あたりからと考えるのが自然だ。そのため、晋王朝の史官である陳寿としては、杜預が『春秋経伝集解』でいう『史の成文』として残したのではないか」。
「『魏志』が倭国を『当に会稽の東治の東に在るべし』と書いて、今の台湾に近い福建省の東方海上にあったように思わせているのも、3世紀中頃の魏と呉の駆け引きを見れば、魏の流した意図的なデマ情報だと推測できる。倭国は『有無する所儋耳・朱崖と同じ』と書かれ、北ベトナムや海南島との法俗の共通性が語られるのも、あたかも倭国を呉の南か東に在るように思わせ、魏と倭国が南北から呉を挟み撃ちにするかのように思わせるためだろう。地理的印象操作だ。すべて、240年前後の、魏と呉の軍事対決の結果に生じた誇大記事と思われる。一種のリーク(意図的機密漏洩)、デマゴギーなのだ」。この鋭い指摘には、目から鱗が落ちた。
「『魏志』<倭人伝>の『詔書』の文章作者は、流れより見て、まず間違いなく、司馬懿だ。陳寿は、仕えている皇帝の祖父の文章を、全文、一字一句、採録したのだ。それを読んだら、皇帝もご機嫌が良いだろう。これが『魏志』<倭人伝>の、真のメインテーマだ。ここにコンパスの中心を当てて、『魏志』<倭人伝>を読まねばならなかったのだ。ここなのだ。これがメインテーマだ。陳寿は、『史記』の司馬遷や『漢書』の班固のような、親の代からの歴史専門家とは、かなりキャラが違う。著作郎(年俸六百石)を史臣とも呼ぶが、学力優秀な、処世にたけた役人なのだ。また、著作郎という地位は、専門家として終生、歴史書を研究し編纂するのではなく、官僚人生の、出世コースの一つのステップだ。これも司馬遷や班固のような、純粋な歴史専門家とは、いささか違う」。
所々に砕けた表現が混じるが、論考過程は極めて精緻である。
今後
本書の主張に納得できない論者といえども、今後は、本書の内容に反論する明確な論拠を示すことなく論争を仕掛けることは許されないだろう。