『日本書紀』が「邪馬台国」「卑弥呼」「親魏倭王」「倭の五王」を書かなかった理由・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1180)】
我が家の庭の樹上のキジバトの幼鳥2羽に、親鳥が餌を運んできます。幼鳥たちは、しょっちゅう口を開け、喉を震わせています。ニホンヤモリが毎晩定刻に、キッチンの曇りガラスに出勤してきます。因みに、本日の歩数は10,856でした。
閑話休題、『漢倭奴国王から日本国天皇へ――国号「日本」と称号「天皇」の誕生』(冨谷至著、臨川書店)は、国号が「倭」から「日本」へ、称号が「王」から「天皇」へ変化した経緯を学術的に論じています。
いずれのテーマに対しても、著者の論旨は明快で、論拠を明示しているので、説得力があります。
57年に倭国が後漢に奉献し、光武帝から金印を賜与された歴史的事実を巡り、1784年に筑前(福岡県)の志賀島で偶然発見された「漢委奴国王」の金印は本物か否かという議論があります。これに対し、著者は本物であると断言しています。「中国から発見された同時代の印、『滇王之印』、『広陵王璽』により、金印は贋物ではなく、中国内地で製造され皇帝から下された印であることが確かめられている。贋物と考えられたのは、異民族に与えた印として、金印で蛇の形をした印綬を通す部分(蛇紐)を有することが疑問視されていたのだが、『滇王之印』――漢武帝が前109年に滇国の王に与えた――も金印蛇紐であることで解消し、さらに『広陵王璽』の書体と『漢委奴国王』のそれとが極めてよく似ていることと、蛇紐と亀紐の部分の魚子(ななこ)が同一技法と思われることで、金印の信憑性を一層確信させるにいたったのである」。
そして、この金印の読み方は、「かん(漢)のわ(委)のな(奴)のこくおう(国王)」ではなく、「かん(漢)のわどこく(倭奴国)・おう」と読むべきだと主張しています。
「光武帝は倭奴国が中華に朝貢したと認めて、中国に従属する王として称号を与えた。・・・(中国としては)異民族が中国に懐いてきたことの表明であり、それが内政の面で王朝の強大を誇示する役割を果たしたのである。一方の異民族も、中華に属するという朝貢関係をもち、その表象として王号を与えられる、それは文明の中華と関係をもつことであり、中華帝国から承認され、称号を与えられたということを、自国内および他の異民族国家に示し優越性と国力を誇示することになる」。
親魏倭王・卑弥呼について。「楽浪、帯方など朝鮮半島の北半分から遼東一帯が完全に魏の支配下に帰した。魏の進攻に対して危機感を抱いた倭の女王卑弥呼は、魏への朝貢の使節を派遣した。公孫淵滅亡の1年後、景初3(239)年6月のことであった。・・・(魏の皇帝は)卑弥呼に詔書を下し、親魏倭王の称号を付与し、それに伴う金印を与え」たのです。
「三国統一を目の前にして、魏の王朝に対する東西の絶域に王号をあたえ、中華=魏への帰属を内外に喧伝し、魏が漢をうけつぐ正統的王朝であることを表明する。一方の周辺諸国、例えば、女王の国にとっては、中国の王朝から称号を与えられることは、その正統性が認められたことであり、周辺の(国内外の)諸国への顕示ともなろう」。
しかし、『日本書紀』が、朝貢の事実は記しても、「邪馬台国」、「卑弥呼」、「親魏倭王」を明記していないのはなぜでしょうか。これが、著者が問いかける第1の疑問です。
5世紀には、倭の五王が宋に朝貢し、執拗な称号(官職)要求を繰り返しました。しかし、『日本書紀』に倭の五王の朝貢が記録されていないのはなぜでしょうか。これは、著者でなく、私自身の疑問です。
遣隋使の時代になると、倭国の中国外交に大きな変化が現れます。「遣隋使は対等の関係をめざした、それまで称号をあたえられ朝貢国として中国に従属する上下関係から水平関係へ転換したといわれている」。この定説に対し、著者はこう異論を挿んでいます。「私はそれは、倭がことさら対等をめざしたというより、あたりまえの自然な結果としての対等、素朴な対等の具現だったと考えている」。
「中国側からの国書は、いずれの場合、いずれの時代にあっても『倭王』であり、『隋書』東夷伝も『倭王姓阿毎』『倭王遣小徳阿輩台』などと一貫して『倭王』としている」。しかるに、『日本書紀』では、『倭王』でなく『倭皇』と表記しているのはなぜでしょうか。これが、著者が問いかける第2の疑問です。
第1の疑問と第2の疑問に対する答えは、このように説明されています。「『日本書紀』は『親魏倭王』を分かっていながら、故意に書かなかった。つまり、3世紀倭女王の時代では、誇示すべき『親魏倭王』が『日本書紀』が編纂された8世紀養老4(720)年段階では、隠蔽しておきたい事柄になっていたのだ。事柄は、同じ背景を持っているのである。魏が賜与した『親魏倭王』、隋皇帝の国書の『倭王』は、『日本書紀』では、もはや受け入れがたく、歴史の事実を曲げても改竄せねばならなかったのだ」。私の疑問に対する答えも、背景は同じです。
「(壬申の乱後に)登場した天武天皇がめざしたもの、それはこれまでの中国との関係を清算した新しい統一国家であり、王から天皇へ称号が変わった。そして『倭』という卑語から『日本』という2字にその漢字表記を変更したのも天皇号尾の成立と同じ背景をもつ。『御宇日本天皇』の名称は、飛鳥浄御原令で規定されたのである」。「天武朝は、漢代から続いた対中国関係を変えて、中国から『王』という称号を賜与されるという臣従関係を清算し、独立をめざした。そのきっかけは白村江の戦いであり、またその敗北であった。敗北により、倭は唐にたいして防衛を強化し、それはひいては唐への従属よりも独立の日本へとすすむ装置となる」。
著者は、「倭(やまと)」、「王(おう)」→「日本(やまと)」、「天皇(すめらみこと)」→「日本(にほん)」、「天皇(てんのう)」――という表記・発音における3段階の変化を考えているのです。