記紀の仲哀天皇以前の記述は史実ではないと、戦前に喝破した津田左右吉・・・【情熱の本箱(246)】
古代史に興味を持ち始めた若い頃、戦前に『古事記』『日本書紀』を批判的に研究した津田左右吉(そうきち)という学者がおり、戦後の歴史研究の進展に大きな影響を与えたということを知り、尊敬の念を抱き続けてきた。
戦前に発売禁止処分を受けた『古事記及び日本書紀の研究』と、戦後発表された「建国の事情と万世一系の思想」を収めた『古事記及び日本書紀の研究――建国の事情と万世一系の思想(新書版)』(津田左右吉著、毎日ワンズ)を今回読んで、思い込んでいたイメージとはいささか異なる印象を受けた。画期的な学説を声高に捲し立てるというふうは微塵もなく、自らが突き止めた研究成果を物静かに述べる生真面目な学者がそこにいたからだ。
日本神代史、古代史を探究し、『古事記』『日本書紀』の神武天皇から仲哀天皇までの部分は歴史的事実を記したのではなく、これらの書物が書かれた当時の政治思想を表現したものだというのである。皇国史観一色に染まっていた戦前の学界で、このような天皇家の起源に関する学説を発表することは、どれほど危険なことで、どれほどの勇気を要したことか。現に、その書籍は発禁処分を受け、津田は早稲田大学教授の職を追われたのである。
津田の研究に対する基本姿勢について。「われわれはその語るところにいかな事実があるかと尋ねるよりは、むしろそこにいかなる思想があらわれているかを研究すべきである」。
神武天皇の東遷の物語について。「神武天皇東遷の物語の意義は、こう見ることによっておのずから明白になる。それは、天皇が日の神の御子であられるという思想から形づくられた説話なのである。約言すると、東遷は歴史的事実ではないので、ヤマトの朝廷は、はじめからヤマトに存在したのである。東遷の物語が、『魏志』によって知られる3世紀頃のツクシの形勢に適合しないのも、クマソに占領せられていたヒムカの状態と一致しないのも、またこの物語によって国家の形づくられた情勢のわからないのも、当然である」。
「神武天皇の東遷の説話そのものが、やはり何人かによって、もっと明確にいうと現実のヤマトの都において重要の地位を有するものによって考案せられたものであることがわかるので、物語そのものからいうと、これはあたかも神功皇后の物語が韓地経略の由来を説いたものであるように、ヤマトの朝廷の起源を述べた一つの説話なのである。やはり歴史的事実としての記録とは考えがたい。実をいうと、歴史的事実としてのヤマト朝廷の起源、すなわち皇室のはじめは、『旧辞』のはじめてまとめられた頃にはまったくわからなくなっていたので、こういう起源説話のつくられたのは、あるいはつくり得られたのは、一つはそのためである。そしてそのヤマト奠都の物語がまったく政治的意義のものであるとすれば、それによって限界をつけられた神代という観念が、やはり政治的のものであることは明らかであるので、皇室の御祖先の代として構成せられたものであるという考説は、これによってさらに一証を得たわけである」。
『古事記』『日本書紀』の神武天皇~仲哀天皇の記述について。「天皇としての称呼の記載のあるのが安閑天皇にはじまっているとすれば、これは仲哀天皇までの系譜の記述せられた時代を知る上において、一つの重要なる暗示を与えるものであろう。少なくともそこに記されている天皇(及び神功皇后)の称号は、欽明朝頃にはじめて定められたものであることが推測せられる」。
「記紀の記載が、概していうと、ほぼ仲哀天皇と応神天皇との間あたりにおいて一界線を有することを示すものである。年代のほぼ推知し得られるのは応神天皇以後である。応神天皇の朝が4世紀の後半にあるということは、シナ及び百済の史籍の上から考察すると、何人も承認している如く、動かすべからざる事実であろう」。
それでは、記紀が伝える物語は何を材料として記述されたのか。第1は、後世の事実である。「神功皇后のときに高句麗が従属したとか、景行朝に陸奥の国の方面のエミシに対する遠征が行なわれたとか、崇神朝に加羅が帰服したとかいう類がみなそれである。クマソの服従が4世紀の終わりか5世紀のはじめか(仁徳天皇の頃)であろうという考説が是認せられるならば、それを景行天皇のときの物語としたのは、その最も著しき例である。新羅遠征の物語を神功皇后の事業としたのもまた、同様である」。第2は、民間説話、またはそれに類似の物語であり、第3は、ありふれた当時の出来事や風俗などである――というのだ。
天皇家の起源について。「上代の歴史的事実としては次のことだけが推測せられる。いつからということの今日からは知られない遠い昔から、この大八島に住んでいたわれわれの民族は、その状態がシナの史籍によって知られるようになった時代には多くの小国家に分かれていて、そのうちの一つにヤマト(大和)地方を領有していたものがあったと考えられる。その君主が皇室の御祖先であったかどうかは明らかでないが、遅くとも2世紀の頃には皇室の御祖先がそこに君臨せられたであろう。それが4世紀の前半において、いわゆるクマソを除くほか、ほぼ民族の全体を政治的に統一せられるようになった。これだけのことが推測せられるのである」。
「記紀の上代の部分の根拠となっている最初の『帝紀』『旧辞』は、6世紀の中頃のわが国の政治形態に基づき、当時の朝廷の思想をもって、皇室の由来とその権威の発展の状態とを語ろうとしたものである。そしてそれは、少なくとも1世紀以上の長い間に、幾様の考えをもって幾度も潤色せられ、あるいは変改せられて、記紀の記載となったのである。だから、その種々の物語なども歴史的事実の記録として認めることはできない」。
天皇家の発展について。「ツクシ地方がヤマトの朝廷を戴くわが国家組織に入ったのは百済の馬韓統一、帯方占領と同じく、ほぼ4世紀の前半のうちに行なわれたものであることが、その百済の近肖古王がヤマトの朝廷と交通したという事実によって推測せられるのである」。
「建国の事情と万世一系の思想」では、邪馬台国に言及されている。「3世紀になると、君主の間には、半島におけるシナの政治的権力を背景として、あるいは付近の諸小国の君主に臨み、あるいは敵対の地位にある君主を威圧しようとするものが生じた。ヤマト(邪馬台、今の築後か山門か)の女王として伝えられているヒミコ(卑弥呼)がそれである。当時、このヤマト(邪馬台)の君主はほぼキュウシュウの北半の諸小国の上にその権威を及ぼしていたようである。キュウシュウ地方の諸君主が得たシナの工芸品やその製作の技術や、その他の種々の知識は、セト(瀬戸)内海の航路によって、早くからのちのいわゆるキンキ(近畿)地方に伝えられ、1,2世紀の頃にはその地域に文化の一つの中心が形づくられ、そうしてそれには、その地方を領有する政治的勢力の存在が伴っていたことが考えられる。この政治的勢力は種々の方面から考察して、皇室の御祖先を君主とするものであったことが、ほぼ知り得られるようであり、ヤマト(大和)がその中心となっていたであろう。それがいつからの存在であり、どうして打ち立てられたかも、その勢力の範囲がどれだけの地域であったかも、またどういう径路でそれだけの勢力が得られたかも、すべて確かにはわからぬが、のちの形勢から推測すると、2世紀頃には勢力として存在したらしい。・・・3世紀においては、イヅモの勢力を帰服させることはできたようであるけれども、キュウシュウ地方にはまだ進出することはできなかった。それは半島におけるシナの政治的勢力を背景とし、キュウシュウの北半における諸小国を統御している強力なヤマト(邪馬台)の国家がそこにあったからである。けれども、4世紀に入るとまもなく、アジア大陸の東北部における遊牧民族の活動によってその地方のシナ人の政治的勢力が覆され、半島におけるそれもまた失われたので、ヤマト(邪馬台)の君主はその頼るところがなくなった。東方なるヤマト(大和)の勢力はこの機会に乗じてキュウシュウの地に進出し、その北半の諸小国とそれらの上に権威をもっていたヤマト(邪馬台)の国とを服属させたらしい。4世紀の前半のことである。そしてこの勢いの一歩を進めたのが、4世紀の後半におけるヤマト(大和)朝廷の勢力の半島への進出であって、それによってわが国と半島とに新しい事態が生じた」。すなわち、津田は、九州北半の邪馬台国と、大和の朝廷の前身が3世紀には併存していたと考えているのである。
津田の説は、いずれも説得力がある。津田の息吹を感じることができ、原典に当たる必要性を再認識した次第である。