孤独死、不幸、死、原発――の本質に鋭く切り込んだ一冊・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1299)】
若き日に、武者小路実篤の『友情』を読み終わった瞬間に、私は日本文学の魅力の虜となり、恋愛至上主義者になっていたのです。『友情』(武者小路実篤著、新潮文庫)は、私に恋の何たるかを教えてくれた、忘れられない一冊です。美しく清楚な女性に恋い焦がれている男のもとに、恋の悩みを聴いてくれ、励ましてくれた親友から送られてきた驚くべき告白の手紙。「私の一生も、名誉も、幸福も、誇りも、皆、あなたのものです」と必死に訴える、親友を恋する女の熱烈さ。その実篤の千葉・我孫子の邸跡が初めて2日間だけ公開されると知り、いそいそと訪れました。大正6(1917)年撮影の写真には、「之は私の家です 山羊を持ってゐるのが志賀(直哉)で犬を持ってゐるのは私です 一七、九、二八、実篤」と書き添えられています。因みに、本日の歩数は13,567でした。
閑話休題、『反・幸福論』(佐伯啓思著、新潮新書)には、著者独自の9つの論考が収められています。
とりわけ興味深いのは、「『無縁社会』で何が悪い」、「人間蛆虫の幸福論」、「畏れとおののきと祈りと」、「溶解する技術文明」の各章です。
無縁死(孤独死)について。「孤独死はなにも特異なことではありません。現代社会のひずみというようなものでもありません。それは近代化の帰結なのです。いささか極端にいえば『われわれは皆孤独死をすべき』なのです。『どうして無縁死が悪いのだ』というほかないのです。・・・これはあくまで極端な議論で、いわば思考実験です。しかし大事なことは、『個人の自由な幸福追求』から出発すると、論理の必然として我々を待ち構えているのは『無縁死』ということになる」。この極端さが、この著者の持ち味であり、また魅力でもあるのです。
「ベッドにくくりつけられて死ぬのも、誰に知られることもなくひっそりと孤独死をするのも実は同じことなのではないでしょうか。どちらも、『死とは、ただ個体としての生物体の消滅である』という現代の原理からすれば、同じ考え方に基づいているのではないでしょうか」。
「『死』とは、どうしても生物体としての個体の消滅です。『人間』が否応なく動物に戻る瞬間なのです。そこにどんな死に方がいいも悪いもありません。自然死としては、できるだけ荷物を軽くし、現世の縁をたち、誰にもさして迷惑をかけず(確かに死体処理者や遺品処理者にはかなり迷惑がかかりますが)、猫が自らの死期を悟ったとき姿を消すように、いつのまにかこっそりと孤独死するのが本当の姿なのです」。しかしながら、これが実際には難しいことは、著者も認めています。
不平等(違い)、そして、不幸について。「そもそも、人間は決して平等になどできていません。人によってカッコよく生まれたものもカッコ悪く生まれたものもいる。カッコよく生まれたものはそれだけで有利な財産をもっている。いくら美醜は人の主観だなどといってごまかしても、実際には生まれながらの条件の違いを無視することはできません。企業の面接でも美人はそれだけでトクなのです。美醜は外見ですが、性格もそうで」す。著者の、言い難いこともズバズバと言い切る物言いには、驚かされます。
「かくのごとく、どうにもならない不平等がある。いや、それも正確な言い方ではなく、人それぞれでどうにもいたしかたのない違いがある。この『違い』を『不平等』だとわれわれは感じてしまうのです。どうしてか。それは、『社会的に成功する』ということがわれわれの人生の大きな基準になっているからです。『社会的に成功する』ことが幸福だと思っている。そして『人はみな幸福になるべきだ』と考えている」。鋭い指摘です。
「われわれにとって、さしあたり不幸の最大級の現象は『死』です。われわれはそう思っている。・・・だから『死』を忘れようとする。『死』を考えずに済まそうとする。・・・だから『不幸』については考えまいとし、『不幸』からはできるだけ遠ざかろうとする。ひたすら『幸福』を得ることだけを考えることにしているのです。にもかかわらず『死の不安』をすべて消し去るわけにはいかない。これが『幸福という強迫観念』の正体といってよいでしょう。その正体は、言い換えれば、『死への漠然たる恐怖』なのです」。
著者が到達した考え方は、このようなものです。「人間の生とはもともと生物的なもので、それは基本的に広い意味で物質的現象というほかありません。だから死ねば個体は消滅する。無へ帰ってゆく。それだけのことです。それ以上でもそれ以下でもない。その本来は物質的現象のなかから何らかの形で『生命』が生み出される。『意識』が生まれ『精神』が生まれる。その『精神』が『幸福』や『死』について考えをめぐらせるのです。・・・人間はただの生物体として死んでゆきます。『土にかえる』ごとくただの物質に帰ってゆき姿も消える。物質において個体の意識も精神もありません。『無』なのです」。これは、私と非常に近い考え方です。
死、そして、生について。「『死』の恐怖を克服するにはどうすればよいか。・・・いわゆる『死後の世界』や極楽浄土があるとは私には思えませんが、それはどちらでもよいことで、大事なことは、今ここで生きていることなのです。『死』という『無』を今ここに取り入れることで『生』の意味が変わってくるということなのです。『無』というものに多少、思いを致せば、人は幾分かは『私』を去り、『無心』になるでしょう。そうすればいくらかは生き方も変わり、罪責感や恐怖から多少は逃れることもでき、絶望を少しはやわらげることができるでしょう」。
技術文明について。「原発は、核物理学、原子力工学、土木工学、地震学、防災学、建築学それに経済学などの多種多様な専門家たちの高度な共作です。徹底して自然を支配し、そのうちに潜むエネルギーを最大限に発露させようとした。そのことによって、人間を自然から自立させ、自らの手で富を生み出そうとした。ところが、まさにここで人間は、この自動化してしまったシステムにからめとられてしまったのです。建屋の中に巨大な格納容器を作って、そこに放射性物質を閉じ込めたつもりか、どうやらわれわれ自身が、原発システムという巨大な建屋のなかに閉じ込められたように見えます。人は、決して近代技術の主人になることもなければ、自然を支配することもできないのです」。原発の本質を衝いています。