長女の目に映った新田次郎とは・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1410)】
散策に行けない雨の日は、読書が捗ります。
閑話休題、私にとって特別な作家・新田次郎のことをもっと知りたくて、新田の長女の手になる『父への恋文――新田次郎の娘に生まれて』(藤原咲子著、山と溪谷社・ヤマケイ文庫)を手にしました。
「『こんなもの読めたものではないね』の出版社の言葉を背に、しかし、父は筆を折ることはなかった。次の作品が出来ると、また束ね、風呂敷に包み、出かけ、再び晩霜の寂しい道を帰ってきた。父の努力など潜在的なものが筆を折らせなかった要因かも知れない。しかし、父の筆を折らせなかったのは母(=藤原てい)の存在であった。3人の幼子を連れ、満州から生還した母の強靭さに父は驚愕した。母はその体験を元に<流れる星は生きている>を書き、ベストセラー作家になった。印税はすべて土地を買い、家を建てることにあてた。父が筆を折らなかったのは、男としての屈辱からだった。父の筆への闘いは男としての闘いでもあり、やがて母の存在は、逆に父の背中を強く押す結果にもなった。父には科学者としての鋭い目、祖父、祖母からの教育、自然へ向ける深い愛情があった。その自然と人間とが強烈な接触を保ちながら流動するというモチーフを、卓越した努力と、緻密な資料集め、更に詳細な下調べ、読み、表現力などで構築し、ついに手抜きのない堅牢な新田文学を創り上げるのに成功したのである」。
「『チャキ(=咲子の愛称)、お父さんが死んだらね、作家新田次郎はこんなふうにして書斎で原稿を書いていたっていうこと、ちゃんと覚えていて、しっかり作品に残すのだよ』。私は10歳、父の直木賞受賞直後の書斎での言葉である。言葉に多少遅れのあった私に、心を開かせ、自信を持たせようと文章指導を開始した頃でもあった。父と書斎で向き合い、作文や詩の添削を受けるのである。『わかったね、絶対に書くのだよ、約束だ』。指切りげんまんをした父の小指が温かかった」。
「『風の中の瞳』が教科書に掲載されたのは中学3年生の時だった。登場人物が皆、兄達や私の年齢に近かったせいか、会話のひとつひとつが気恥ずかしく、音読は勿論、教師から、作中の主人公の気持ちなどを問われた時は、和服姿で『チャキや』と両手をひろげておどけたポーズをとる父がチラチラして、素直に答えることが出来ず、早くその単元が終了してくれることだけを願っていた。作中の日野敏男という主人公が、次兄(=藤原正彦)とあまりにも似ているので、父に聞いたところ、『どうかな?』と、開け放たれた窓の下で、畳紙から袷の着物を広げている母に、いたずらっぽい目を向けた。『咲子もいるわよ』と、藍色のそれを衣桁に通しながら、母は背を向けたまま答えた。私は夢中になって、『風の中の瞳』の中の私を探した。3人の女生徒のうち、読書好きだが、友達と交わることが苦手な千穂という少女が、私に似ているような気がして、胸が高鳴った。しかし、読み進むうち、千穂が寝言を言うために修学旅行へ参加するかどうかを、深刻に悩むという箇所に出あった。まさに私だった」。
中学2年の私の誕生日に両親からプレゼントされた『風の中の瞳』は、それ以来、私の愛読書となりました。小説の魅力に目覚めた私の読書世界は、これを契機として大きく広がっていったのです。
「父が長編『八甲田山死の彷徨』を執筆するきっかけになったのは、昭和27年、偶然、神田の古書店で買った、八甲田山遭難事件の報告書である『遭難始末』を読んでからだった。昭和29年春に、まず『八甲田山』として30枚の短編にまとめた。・・・39枚の原稿は、そのまま柳行李の中で眠っていたが、直木賞受賞後の昭和31年、『八甲田山』として、新潮文庫『強力伝』の中に収録され、日の目を見ることになった。そして再び、約20年の時を過て、長編『八甲田山死の彷徨』が完成されたのである」。
本書を読んで、新田が身近に感じられるようになりました。