宇沢弘文という、闘い続けた反骨の経済学者がいたことを、君は知っているか・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1618)】
林間では、樹液を求めてヒカゲチョウが乱舞しています。40分ほどの撮影中に、30カ所以上、カに刺されてしまいました(涙)。エンマコオロギの雌の死骸を見つけました。我が家に、女房の新しい自転車がやって来ました。丸石サイクルのシフォンALの軽さと乗り心地に満足の様子です。因みに、本日の歩数は10,882でした。
閑話休題、宇沢弘文という経済学者の名前は知っていたが、どういう人物なのかは何も知りませんでした。
弟子筋の佐々木実の手になる『資本主義と闘った男――宇沢弘文と経済学の世界』(佐々木実著、講談社)のおかげで、宇野の生涯と、経済学の歩みを理解することができました。
「<社会的共通資本は、一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置を意味する>。社会的共通資本の理論は、分析手法においてはまぎれもなく主流派経済学を踏襲しながら、新自由主義を産みおとした主流派経済学に対抗する理論として構想された。いささかアクロバティックな理論を構築してまで宇沢が問いたかったのは、市場原理が深く浸透する社会で『人間』はどうあるべきか、市場空間のなかで『社会』をつくり維持することは可能なのか、という切迫した問題だった」。
「グローバリゼーションの猛威によって、市場原理に輪郭を規定されてしまうような『人間』であってはならない。人間の側が、市場システムにあるべき『人間』の姿を可能とするような仕組みを埋め込むことで、真にゆたかな社会をもたらす市場経済をつくりだすことができる。晩年の宇沢を突き動かしていたのは学問への情熱というより、焦燥に似た憤りだった。いま、『人間』が資本主義に試されている――そんな危機意識を強く抱いていた」。
「『アメリカ』から色濃く影響を受けた現代経済学を批判し、工業化と都市化に邁進して自然をないがしろにする日本社会に警告を発し、農業の危機を訴え、地球温暖化の問題を論じる。闘いは重層的なものとならざるをえなかった。教育の問題、医療の問題、都市のあり方、森林や川の保全・・・戦線を拡げれば拡げるほど、同僚や教え子の経済学者たちからは敬して遠ざけられるようになった。アメリカ在住の気鋭の数理経済学者として、世界中どこの大学を訪れても研究者たちに囲まれ羨望のまなざしでみつめられていた若かりし頃とはまったく別の、経済学者の姿がそこにはあった」。
55歳で文化功労者に選ばれた時、顕彰式が終わり、宮中のお茶会に招かれて、昭和天皇と対話した場面を、宇沢が臨場感溢れる筆致で描いています。<私の順番が回ってきたとき、私は完全にあがってしまっていた。・・・私は夢中になって、新古典派経済学がどうとか、ケインズの考え方がおかしいとか、社会的共通資本がどうのとか、一生懸命になってしゃべった。支離滅裂だということは自分でも気が付いていた。そのとき、昭和天皇は私の言葉をさえぎられて、つぎのように言われたのである。『君! 君は、経済、経済というけど、人間の心が大事だと言いたいのだね』。昭和天皇のこのお言葉は、私にとってまさに青天霹靂の驚きであった。私はそれまで、経済学の考え方になんとかして、人間の心を持ち込むことに苦労していた。・・・この、私がいちばん心を悩ましていた問題に対して、『経済、経済というけど、人間の心が大事だと言いたいのだね』という昭和天皇のお言葉は、私にとってコペルニクス的転回ともいうべき一つの大きな転機を意味していた>。
「(ジョン・)デューイはプラグマティズムを唱えた哲学者とされているが、『プラグマティズム』と呼ぶより『リベラリズム』といったほうがデューイの哲学を正確に表現していると宇沢はいう。・・・鶴見(俊輔)は『デューイ』で、日本の数少ない優れたプラグマティストとして福沢諭吉と石橋湛山を挙げている。いずれも宇沢が高く評価した人物だ」。
「<社会的、歴史的な現象である経済の動きや仕組みをどう予測、分析するかということです。しかし、そういった難しさを無視して、あたかもサイコロを振るモデルで処理をしてきた。そして、それぞれが持っているサイコロは、サブプライムローンなどを組み合わせながら、いかにも格好がつくようなかたちで金融商品として売っていくわけです。そのために、非常に難解な、しかしまったく根拠のない数学を使用していたのです。これが金融工学の本質です。実際にやっていた人は、そのことをわかっていました>。<私は今。怒りというか、なんともいえない憤りを感じています。60数年にわたりアメリカに徹底的にやられてきた日本の社会、そして、その中でのんのんと生きてきた。そのことを反省しなくてはいけないと思います。新しい流れを、なんとか見つけていきたい思いです。それしか道がないですから>。
東日本大震災から10日後、脳塞栓で突然倒れた宇沢は、身体の自由が利かなくなっただけでなく、言語による意思疎通もままならなくなり、3年半の闘病生活を経て、2014年9月18日に息を引き取りました。享年86でした。