『名将言行録』から、私たちが学べること・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1470)】
キビタキの雄の撮影を狙って3日連続で千葉・野田の清水公園を訪れたが、空振りに終わりました。園内の金乗院では、さまざまな色合いのボタンが咲き競っています。因みに、本日の歩数は13,563でした。
閑話休題、『日本の大名・旗本のしびれる逸話――名称・知将の頭脳とハート』(左文字右京著、東邦出版)で取り上げられているエピソードは、『名将言行録』に基づいています。
『名将言行録』は、戦国時代から江戸時代中期までの武将など192人の逸話を収録し、明治初期に出版された人物伝であるが、本書では75人の大名・旗本のエピソードが紹介されています。『名将言行録』には明らかに事実ではない逸話も含まれていることを踏まえた上で、先人たちの考え方や行動から教訓を汲み取ることには、それなりの意義があると考えます。
歴史上の有名な人物たちに学ぶだけでなく、あまり知られていない人物のエピソードに触れるという楽しみも、本書にはあるのです。例えば、板倉勝重(1545~1624年)は、こんなふうに語られています。
「元和9(1623)年、(徳川)秀忠の上洛に従って京に入った鳥取藩主の池田光政が勝重のもとを訪ねました。光政は14歳。幼いながら学問好きで、議論好きでもあったといいます。勝重はすでに京都所司代を退いていましたが、光政をもてなし、事が国政に及ぶと、『私はただ農工商売の訴訟裁判のみに歳月を送り、いまだ国政についてはわきまえておりません』と言いましたが、光政がしきりに問うので、勝重はしばらく考えてこう答えました。『国を治めるには、四角い箱に味噌を入れて、丸い杓子で取るように行うことです』。光政はしばらく考えて、『それでは隅々まで取ることができません。どうすればいいのでしょう』。『そこなのですよ。私は(徳川)家康公に仕えて多くの智将と呼ばれた方々にお会いしましたが、貴殿のように若くして国事に心を悩ませる方に会ったことはありません。貴殿は聡明でいらっしゃるから、隅の隅などにこだわらず、国を盆だと思って物を盛りつけるように堂々となさったらよい』。光政は成長して名君と呼ばれるようになり、その治世は岡山藩の模範とされました。勝重の裁定や逸話は『板倉政要』という判例集として現在に伝わっており、その内容はいわゆる『名奉行』の原型となっています」。