井上光晴、その妻、光晴の愛人・瀬戸内晴美の三角関係を描いたモデル小説・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1510)】
アゲハチョウ、クロアゲハの雄、アカボシゴマダラ、イチモンジチョウ、コミスジ、ヒメアカタテハ、キタテハ、ヒカゲチョウ、サトキマダラヒカゲ、ヒメウラナミジャノメ、キタキチョウ、モンシロチョウ、ミズイロオナガシジミ、ルリシジミの雄をカメラに収めました。
閑話休題、『あちらにいる鬼』(井上荒野著、朝日新聞出版)では、女好きな小説家とその4歳年下の妻、小説家より4歳年上の愛人の三角関係が描かれています。愛人は、男性経験が少なくない小説家です。妻と愛人が交互に語る形で、小説家の死後に至るまでの物語が進行していきます。
描かれている小説家は井上光晴、妻は井上郁子、愛人は瀬戸内晴美(寂聴)がモデルで、本書の著者は光晴・郁子夫妻の長女・井上荒野です。
妻・笙子の語り。「私は、篤郎と長内みはるが肉体関係を持った時期すら、たぶんほとんど誤差なく言い当てることもできる。妊娠中の私に対しても宥めるのに苦心していたらしい彼の性欲が、ある時期からぱったりおとなしくなったからだ」。
愛人・みはるの語り。「わたしは、白木の小説をめくる。ちょうど、彼の訪れを待っているときと同じように、心を騒がせながら。小説家としての観察が終わると、どうしても白木の小説の中に、彼を探しはじめてしまう。・・・わたしの男。すでに白木は、それになっている。不思議なものだと思い返す。徳島の講演会のとき、朝のハイヤーの中で白木にはじめて会ったときには、その声の大きさも、自信たっぷりな態度も、うっとうしいばかりだったのに。あの頃、一緒に暮らしていた真二の上にはすでに心がなかったが、男がほしいと思ってなどいなかった。むしろそういう関係はもうこりごりだという気持ちでいたのに、どうしてまたこんなことになっているのか」。
みはるの語り。「もちろんわたしは衰えていく。でも、体が衰えても、心はしぶとい。むしろ体が衰えるほどに、心が求めるものは切実になっていくだろう。さらに老いて、もう性交ができなくなっても、こんなことは続くだろう。なぜならわたしという人間には、それが必要だから。出会ってしまい魂が動かされれば、そのことに気づかないふりをすることはできない。気づかないふりをしながらゆるゆる生きるなんて耐えられない。だからこんなことは死ぬまで続くのだろう。・・・わたしの体の奥底から込み上げてくるものがあった。この男がいとしい、とわたしは思った。どうしようもない男だけれど、いとしい。いとしくてしかたがない。白木との関係を終わりにしたいと、これまでにない熱量で思ったのも、同時だった」。
笙子の語り。「もうがまんできない、別れましょう。篤郎に、そう言ったら。別れることはできるだろう。篤郎がどれほど言い訳しても説得しても怒っても嘆いても、私さえその気になれば、子供たちは私と暮らすことになるだろう。篤郎が親権を主張するとは思えない。生活はどうするか。佐世保の実家に帰ればいい。両親は嘆くだろうが、最終的には迎え入れてくれるだろう。仕事を探そう。国語の教師に戻れるかもしれない。家庭教師をしてもいい。その合間に小説を書こう。・・・私は篤郎と別れない。別れられないのではなく、別れないのだ」。
笙子の語り。「私は気づいた――私は長内みはるの出家に見合うようなことがしたくて、秦さんと寝たのだと。私は長内みはるに出家してほしくなかったのではなくて、出家する彼女が羨ましかったのだと」。
出家したみはる・寂光の語り。「白木とのことも、何も決めなかった。出家によって男女の関係を終えたあと――正確に言えば、出家の日、由紀子の別荘でのあの夜のあと――わたしたちはどうなるのか、まったく会わなくなるのか、なんらかの関わりを持ち続けるのか、これもなるようになるのだろうと思っていた。わたしではなく白木が決めるだろうと。そうして今もわたしたちは付き合っていた。・・・それがなくなったぶんを言葉が埋めた。ふたりが男女の仲であった頃、口にできない言葉がどれほど多かったか、わたしはあらためて気がついた。今はもうわたしも白木も、使いたい言葉を使うことができた。話題も選ばなかった」。
人を好きになるとは、どういうことか、好きな人の配偶者になること、なれないことは、どういう影響を与えるのか――を、改めて考えさせられました。