榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

若者はなぜ保守政党を支持するのか・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1817)】

【amazon 『若者保守化のリアル』 カスタマーレビュー 2020年4月4日】 情熱的読書人間のないしょ話(1817)

セイヨウシャクナゲが赤い花、白い花を咲かせています。ハナモモも頑張っています。ホトケノザ、ヒメオドリコソウが群生しています。我が家のオダマキの花が完全に開きました。

閑話休題、『若者は社会を変えられるか』(中西新太郎著、かもがわ出版)を読んで、若者の考え方、行動の底に横たわっているものを、より深く知りたくなり、『若者保守化のリアル――「普通がいい」というラディカルな夢』(中西新太郎著、花伝社)を手にしました。

「持続可能な社会を目指すというと聞こえがいいけれど、核心にあるのは。自分たちの生きる環境をこれ以上悪化させたくない、仕事も生活も普通の状態に保ちたいという願望であり感情ではないか。そう願うのは、普通の状態を維持することが難しく、いつそこから滑り落ちてしまうかわからないぎりぎりの世界で生きているという認識、日本社会の受けとめ方がひそんでいるためだろう。周知のように、各種意識調査での若年層の生活満足感は90%を超える高率であり、そこから、しばしば、社会に何の不満もなくまったり生きているのがいまの若者という像が引き出される。しかし、この満足感の実相は、いつ何時脅かされるかもしれない『現状』を守りたいと願う現状維持意識の強烈さであるように筆者には映る」。

「現状維持を望む志向は、言うまでもなく、保守主義に当たる。生活保守主義の強い志向を持つことを指して若者の保守化と指摘するのは、そのかぎりで正しい(ただし、この場合の保守化は右傾化とは異なる)。しかし、ここで注意すべきは、この生活保守主義が、経済大国化の果実を手中に収めたポジションに居て、現在の豊かさを維持したいという意識ではない点である。普通に働き暮らすことが『ぎりぎり』という現実をリアルに感知した上で、普通に生きたいと思う、そういう現状維持の志向であり保守主義なのだ。『普通でいい』『普通がいい』とは、大人から夢を問われた時、そう問う大人のうかつさに黙って肩すかしを食らわせる『模範解答』だが、その『普通』にだってたどり着くのが難しいことを同時につたえている」。

「彼ら彼女らが築いてゆこうとする普通の生き方には、社会から置き去りにされない最低限の環境・保障が不可欠だという共通の根がある。ぎりぎりの状態からたたき落されない基盤が必要だという点で、『普通』の実現(維持)は生存権の保障という理念と深くリンクしている。・・・この『普通』の追求は、生存権が侵犯され、置き去りを正当化する社会の下では、きわめてラディカルな性格を帯びている」。

「現状維持の志向は、したがって、現在の秩序や政治を支持する保守主義につながりうる。ものを言わせない強力な秩序と置き去り状態を正当化する『恐怖の政治』が支配する状況の下で、ぎりぎりの『普通』を維持したいと願う時、いまの状態を確保できていることの重要性がとりわけ強く意識されるのは当然だろう。また、これを可能にすると感じる(つまり頼りになると感じる)保守政党が、たとえ消極的にせよ、支持されるのも意外なことではない。自分たちの処遇低下や窮迫状態をもたらしたのが、当の保守政権党による新自由主義政策であるにもかかわらず、それとは別の回路で保守政治に反対しない態度が醸成されてゆく。既存の社会秩序を超えるラディカルな現状維持志向と現実政治に対する認知との分裂である」。

現代の日本の若者たちが共有する具体的意識を考える手がかりとして、彼らの恋愛に対する意識が取り上げられています。「交際相手をもつことは現代日本の若者にとっては、ローティーンの時代から、強迫観念と言ってよいくらい強い規範になっている。90年前後から独特の様式化を遂げた恋愛文化のもとで、恋愛、交際は日常生活の必須アイテムのように見なされ意識されている。ところが、新成人の恋愛・結婚意識の趨勢を追うある調査では、交際相手がいない者の比率は男女ともに増加し、男性ではついに8割を超えている。『恋愛は必須アイテム』という規範と実態とがずれているのである。これに並行して『恋愛しなければダメ』という意識も薄れはじめ、結婚のみならず恋愛についてさえ、『草食系』男女が増加しているらしい。この例から注目したいのは、『交際相手がいなければそれはそれでかまわない』という意識のあり方である。一般化して言えば、『何か不足していることがら(もの)があっても、それなりに生きていければ私は大丈夫』というエートス(心のかまえ)が息づいているのではないか。規範化された恋愛文化に背を向ける点では、このエートスは『達観』とも言うべき見事な対処術だろう。自分の願望や要求を小さくし、方向を転換させてしまえば、とても解決できそうにない困難に『無駄な』(実りない)エネルギーを使わずにすむ。手の届く範囲だけに関心を向ける態度だと非難してもはじまらない。強大で脅迫的な秩序のなかで自分が生きられる余地をつくるために編み出された知恵であり処世術なのだから」。

「『こうすれば満足できる』という生の水準をこのように自在に操作し、不足を補うために目を血走らせて生きることを拒否する――このような処世術を生のミニマリズム(最小限主義)と呼ぼう。『自分がいま可能なしかたで、満足でき幸福な生き方を実現できればそれでけっこうじゃないか』という感覚を基盤にすれば、幸福感や満足感はそうそうのことでは減退しない。大切なのは、居心地のよい場所を発見すること、心地よく暮らせる条件(環境)を確保すること――これが安心と呼ばれる心情にひそむ志向性なのである。『そんな幸福感は思い込みにすぎず、幻想のなかで生きるようなものだ』という批判は当然にあるだろう。現実の生活が追いつめられ、先の展望が塞がれるなかで満足だと思っているだけのこと。という批判である。しかし、幸福幻想をそのように批判すればすむとは、筆者には思えない。未来を輝かしいものと考えられない者がそのでもなお満足できそうな世界を夢想すること、夢想するだけでなく追求してみること――そこに幸福追求の一つの姿を認めることはできないだろうか?」。