美濃の国盗りは、斎藤道三一代ではなく、父との二代で成し遂げられた・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1879)】
ギョリュウバイ(濃桃色)、ハルシャギク(ジャノメソウ、ジャノメギク。黄色+濃赤褐色)、さまざまな色合いのスカシユリ、クリ(白色)が花を咲かせています。ウメの実が落ちています。
閑話休題、『斎藤氏四代――人天を守護し、仏想を伝えず』(木下聡著、ミネルヴァ日本評伝選)は、戦国大名・斎藤道三の父、当人、子、孫の四代に亘る栄枯盛衰に肉薄しています。
私にとって、とりわけ勉強になったのは、次の3点です。
第1点は、美濃国主にのし上がった下克上が道三一代でなされたという通説が否定されていること。
「有名な道三の国盗り自体も、道三一代でやってのけたわけではなく、かつて道三の前半生とされていた、一牢人から土岐氏重臣にまで出世を遂げた父長井新左衛門尉との、二代にわたってのものであることは。六角承禎条書により指摘されて、すでに久しい。この六角承禎条書は、岐阜県史編纂時に見出され、道三の父が元僧侶で、美濃に来て土岐氏重臣となったことを示し、二代での国盗りであった根拠となる史料で、ある意味この史料が見出されたことが、本格的な斎藤氏研究の始まりとも言えよう」。
「近江の六角承禎(義賢)が息子義治(義弼)に対して出した条書の中で、<義龍の祖父新左衛門尉という者は、京都妙覚寺の法華宗(日蓮宗)の坊主であったのが、還俗して西村と名乗り、長井弥次郎の家臣となって、美濃国内の錯乱に乗じて功を上げ長井苗字を与えられた>とあり、続いて<義龍父の左近大夫(道三)は、長井惣領を殺して乗っ取り、さらに斎藤苗字を獲得した>と記していることによる。すなわち戦国大名斎藤氏は道三に始まるのではなく、道三の父長井新左衛門尉が存在し、新左衛門尉―道三―義龍という系譜関係であった。そして、僧侶から還俗して西村勘九郎と名乗り、長井苗字にまでのしあがったのが新左衛門尉、その子道三が長井の家を乗っ取り、斎藤苗字となったわけである。これにより、道三は従来言われていたような、一代で美濃国主となったのではなく、父との二代での国盗りであったことが判明した」。
「道三自身は守護家重臣の立場からスタートしており、主君(土岐)頼芸に取って代わる下克上はしているものの、著しく政治的地位を上昇させたとは言えない。むしろ父新左衛門尉のほうが、身分変動がまだ盛んでない戦国初期において、所縁といえば僧侶時代の兄弟弟子ぐらいしかない浪人から、大名家の重臣に収まっているのだから、その出世具合は上であろう」。
第2点は、道三と息子・義龍の反目は、義龍が道三の旧主・頼芸の落胤だったからだという通説が否定されていること。
「義龍が道三の子ではなく、実は頼芸の子であった、とする話が近世半ば以降に創り上げられていく過程で生み出されたのが、三芳野だったのである。さらに言えば、主君の愛妾を奪う寵臣という構図は、道三の悪逆性をさらに増す効果があり、話をしては面白くなる。道三が頼芸の側室を奪った事実もあったかもしれないが、頼芸の子を宿した三芳野なる女性はいなかった。話を盛り上げる舞台装置として創出されたと見るべきである」。義龍は道三の実子であったというのです。
「やはり家督問題が(道三と義龍の反目の)一番の原因となっていたことが分かる。またそれ(道三がかわいがっている義龍の弟に家督を譲ろうとしたこと)に付随して起きた、弟の家臣から義龍の家臣への無礼なども要因として挙げてよいだろう。自身のみならず、家臣まで侮られるようになったことは憤りを生じるのに余りある。また、めったにしていない他国への援兵派遣など、道三が織田信長に対して必要以上に肩入れしたことも、原因の一つとなる。家督継承者である義龍と、女婿とはいえ他国の人間である信長との扱いの違いは、当然義龍に不満を抱かせたであろう。道三が信長を気に入り、何かと支援するようになったきっかけが、世によく知られている聖徳寺での会見である」。
第3点は、義龍は無能であった、その子・龍興は暗愚だったという通説が否定されていること。
「(道三を打ち倒した)義龍は、道三と異なり、領国統治上の問題や周囲の大名との関係から、積極的に幕府と関係を構築していたと言える。そして朝廷にも同様な姿勢を取っている。幕府・朝廷との良好な関係は、そうしなかった道三と、義龍とは違うことを、領国内外に示す意味でも有効だったのだろう」。
「義龍は、信長の敵となりうる尾張国内勢力と通じることで、信長の目を容易に美濃へ向けさせないようにし、あわよくば信長の排除も目論んでいたと言えよう。結果的には失敗に終わったとは言え、織田家中をかなり混乱させ、その後も美濃へ攻め込ませないような状況を作った義龍の手腕は評価されていい」。順調に領国経営を行い、道三時代より国威を増した義龍が、33歳で早逝しなければ、「信長の美濃制圧は倍以上時間がかかっていた可能性が高く、むしろ美濃を落とせなかったかもしれない」。
「龍興の実際の政務については、国内の統治に関する文書が現在1通も残っておらず、その様子は窺い知れない。従来はこれを龍興が政務放棄していると見る向きが強く、竹中半兵衛の稲葉山城奪取が、龍興の放蕩三昧を諫めるために行われたと説かれたこともあり、暗愚な太守としてのイメージが長らく持たれてきた。しかしこれは、重臣たちによる政務体勢が確立していたため、龍興が直接指示する必要が無かったとも考えられる。・・・よく若年の龍興が、政務を顧みず、酒色にふけっていたとされるが、これは内政を重臣に任せていたことの裏返しであり、江戸時代の遊興にふける藩主のイメージが投影されているのにすぎない」。「龍興は従来言われていたほど低能な武将ではなかったのである」。