高橋英夫の透徹した目が随所に感じられるエッセイ集・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1896)】
シマススキの葉が涼しげです。チガヤの穂が風に揺れています。アジサイ、ガクアジサイも頑張っています。
閑話休題、『五月の読書』(高橋英夫著、岩波書店)は、高橋英夫の没後に編まれたエッセイ集です。
「『分らなさ』の中で漂う」は、「分からなさ」がテーマです。「文学資料や文学者には、さまざまな『分らなさ』や『曖昧性』が付き纏うものだということを、時々感ずる。といっても『分らなさ』の意味とかその現れ方とかはそれぞれ違うのだが、ふりかえってみると方々にそれがあって、微妙に繋がっているような、いないような気分にさせられる。・・・『分らなさ』をすぐ解決しようとはせず、取り敢えず括弧でくくったような形にしておいて書いてしまうというのも、うまくいった場合にはという条件つきで、たしかに一つの方法といえる。時には『分らなさ』が別の味わいを生んだりもする、そのへんの機微がそのころ(=二十代)はまだ分っていなかった。・・・(河上徹太郎の文章を読んで)『分らなさ』にこだわっていた私には、『分らなさ』を越えてこういうふうに書くこともできるのか、という思いが湧いてきた。・・・このほか、ちゃんと分っていても、敢えて『分らなさ』を装って表現をぼかすという高等戦術もよく用いられる」。
「『書評家』と名乗ってみては」は、ユニークな書評家論です。「その分野の専門家であってもまるで書評に向いていない、書評のできないタイプの人物もいる。書評とは専門の見識、判断力と、ここでは説明しきれない書評適性能力の複合したものであり、『書評家』とは一種の専門職である」。
「言語空間に現れ出たイデア――辻邦生」は、読み応えのある辻邦生論である。「西欧派の中でも辻邦生の孤独ないし特異性は疑えなかった気がする。近代以後に止まらず、信長・秀吉の当時から、西欧とは帰するところキリスト教であった。それを一般化していえば、日本人は西欧によって宗教なるものに直面してきた。近・現代文学に限ってみても、結局中心問題は『キリスト教とは何か』なのである。この本質において辻さんの精神は歴然と他とは角度や感触を異にしている。作者としての辻邦生その人にも、作品の主だった登場人物たちにも、慎みをもった内面性が感じられる。この内面性はどこか宗教的人間の気配に通じている。それでいながら、辻邦生も登場人物たちも実は宗教人ではないのだ。修道士、修道女が描かれた場合でも、そういうところがあった。このことを早い段階から辻さんは自覚していただろう、と私は想像している」。
著者の透徹した目が随所に感じられる一冊です。