いつかやって来る「死」を、おたおたしながら考える(第9話)――がんになった哲学者が、死を意識しながら、人生について考えたこと・・・【続・独りよがりの読書論(52)】
『死の病いと生の哲学』(船木亨著、ちくま新書)では、ステージ3bの大腸がんのため手術を受けた哲学者が、死を意識しながら、人生について考えたことが綴られている。
「自分がいつ死ぬか分からないという怖れは、――とりわけ医療制度が万能であるかのように思い込まされている現代では――、人々のあいだから追い出されることへの不安の反映にほかなりません。死ぬことへの恐怖は、――ハイデガーのいう『孤立した現存性』(『存在と時間』)の『存在論的不安』(レイン『引き裂かれた自己』)というように誤って意識されたりするのですが――、思うに、人々のあいだから追い出されることの恐怖とおなじものなのです。しかし、それが逆に、現行秩序の根拠に対する根本的な懐疑をもたらして、人々が真に思考するきっかけとなるのです」。
「どこまで思考を進めようと、死は、生と対立する。地球の公転は、生の中で経験され、認識されるが、私の人生の車輪とは『生まれて死ぬ』ことである。死は経験されず、認識されない。経験されるときにはもう死んでいるのだから経験されない――エピクロスがそう述べていた(『語録』)。死は生にとっての『特異な差異』なのである。生における諸経験を認識させる何ものか、しかし、『死』とはそうした経験を超えた何ものかである。ハイデガーがいうようには、生のうちに覚悟ができるものではありそうにない(『存在と時間』)。死はそのような、思考の対象ではない。人生という巨大な謎――すべての人に死が訪れる。生の中に生起するどんな喜びも悲しみも、どんな真も善も美も、死を超えることはできない」。
「畢竟、死について思考することは、生について思考することである。他の生物たちのように自然にただ生きるのではなく、思考して生きるようになることである。死について思考することは、生の短さについて思考することであり、生の時間には限りがあることを思考することである。その短い生をどのように生きるかについて、思考することである」。
「ハイデガーは、死の宿命性をテーマにして『存在と時間』を書いたが、それが受け容れられたのは第一次世界大戦後の、いつ戦争になっても不思議はない時代においてであったことを思い起こすべきであろう。考えてみれば、人類の歴史のうち、大部分は飢餓、疫病、天災、戦乱の中、1年後に自分が生きているかどうか分からない生を、人々は生きていた。ところが今日、人間は寿命まで生きるのが当然とされ、それが政府の一大事業だとされ、人々は、生活の背後に自分の唐突な死が控えているという感覚を失ってしまっている。とはいえ、それは隠されているだけである(コロナ禍によって暴露されたように思う)。私は、そうしたことをふまえないと人生については論じられないと思うようになった」。
著者から、あなたはがんと宣告されていないから、そういうことが言えるのだと反論されそうだが、私は、「死は経験されず、認識されない。経験されるときにはもう死んでいるのだから経験されない」というエピクロスの言葉によって、死の恐怖から解き放され、それ以降は、一度きりの人生を充実させることに集中してきた。
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