野末陳平の本音噴出の老人論・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1979)】
モミジバフウが紅葉し始めています。ノウゼンカズラとサルスベリの花がコラボレイトしています。ヤマハギ、ヒガンバナ、ホウセンカ、ニラが花を咲かせています。因みに、本日の歩数は11,019でした。
閑話休題、『老後ぐらい好きにさせてよ――楽しい時間は、「自分流」に限る!』(野末陳平著、青春出版社)の著者・野末陳平は、老後をもっと面白がって大往生しようよと、本音で語りかけています。
「人間死ねばゼロなんだから、死と同時にぼくはこの世から抹消されるのです。・・・人は生きてる間だけが花です。死は怖いけど、近い将来必ず、ぼくにも訪れるわけですから、いまは死を深く考えてはいません。健康で人生を面白がる老後の日々を、それなりに楽しむことで充分に満足なんです」。
「極端にいえば、男女を問わず、高齢者たちに共通する深い思いは、次の二つ。『年とったら、勝ち組も負け組も大差ない。みんな平等にトシとるね、えらい人も金持ちも』。『そうさ。だから前向きになれず、うしろむきの生きかたしかできないんだ。一番ショックなのは、オレはもう世の中から必要とされていない、この冷徹な事実じゃないかな。オレは自治会の世話人やってるから、まだマシだけど』。順不同に老人の思いを並べましたが、ぼくも半分以上、同感なんです。誰しも口に出して言わないだけ。人の老後なんてそんなに楽しいものではないんです。だから高齢者ってのは、守りに徹するしかない」。
「(若い人と交流するときの)自分への注意事項として次のような結論にたどりつきました。●聞き役に徹すること。老人は話し上手である必要はなく、相手から情報や若さを目いっぱい吸収しなくては損である。●知ったかぶり厳禁。ぼくの生きてきた昭和と平成の現在はサマ変わりの時代だから、知ったかぶりは恥をかくだけ。知ってることでも知らんぷりで相手を立て、相手の新しいネタを引きだす。これが自分のためになる。●話の腰を折るな。年長者は、若い人たちの話に何かと口を挟みたくなるが、こっちから口出しは禁物。聞かれたら話す、教える、こうしないと敬遠されて、つきあってもらえなくなる。●昔の自慢はするな。これは、若い人たちとつきあう時の大原則でしょうね。自慢してるこちらはいい気持ちになるが、相手はお義理で聞き、ヨイショしながら、『またかよ』と心の中でせせら笑っているに違いない。とくに上りつめた上司たちが、同じような自慢話をいつでもどこでもくり返す愚はやめよう。若い社員たちには、完全なるボケと映る」。ここで批判・揶揄されている高齢者は、まさに自分ではないか――と、青ざめた私です。
「『サラリーマンOBってのはね、たいてい、やることがなくて退屈しきってるんだ。かれの現役時代の栄光はどこへ行ったんだ? マボロシと消えてしまった』。直接聞いてみますと、退職後60代後半から70代にかけてかれらの多くは、なにかの会がないと毎日やることがないに等しいのです。退職で手にいれた莫大な時間とうれしい自由を、それこそ退職後自由自在に使いこなせばいいものを、それが自由に使えない、いや持て余して宝の持ちぐされ。『毎日がヒマすぎて困ってる。時間つぶしのネタがない』。・・・せっかく管理社会から解放され、待望の自由と時間を手に入れたのに、それを生かしきれない。こんなこと考えてもみなかった、とかれらはぼやくのです」。
「定年後のサラリーマンたちのブログや随筆に目を通すのが好きで、参考までによく読んでますが、そうすると、このあたりの事情がよくわかります。かれらが定年で失うもの、仕事、給料、ボーナス、肩書き、仕事の達成感、安堵感、同僚・仲間たちとの連帯感、仕事や人事がらみの刺激、ネクタイ姿で出かける機会の減少、酒のんで上司の悪口をいう楽しみの場、行きつけの飲み屋に行くチャンス、などなど、実はもっとあるのでしょうが、サラリーマン経験のないぼくにはこの程度しかわからぬものの、これだけの莫大で多様なものを定年や退職後にいきなり喪失して未知未案内未体験の老後空間にいきなり突入するのだから、その孤独と大迷走は、無手勝流ではどうにもなりません」。
野末の本音噴出の老人論は、実は、老人たちへの応援歌なのです。