関ヶ原合戦の敗者・豊臣秀頼はどれだけ損をし、勝者・徳川家康はどれだけ得をしたのか・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2008)】
夜明け前、三日月と火星が縦に並んでいます。昆虫老年の私にとって、今日は記念すべき日となりました。この辺りでは滅多に見ることのできない、長距離の渡りをするチョウとして知られるアサギマダラの雄に出くわし、カメラに収めることができたからです。因みに、本日の歩数は12,245でした。
閑話休題、『「関ケ原」の決算書』(山本博文著、新潮新書)は、関ヶ原合戦を経済的な視座から解読している点で、類書と一線を画しています。。
著者によれば、関ヶ原合戦の総決算は、こうなります。「関ケ原合戦後、全国に分布していた豊臣家蔵入地と(豊臣)秀頼直臣領は秀頼の手から離れてゆき、(徳川)家康の思うがままにされた。家康は豊臣家蔵入地を西軍大名からの没収地と同様に、あたかも自分の財産であるかのように諸大名や一門や配下の武将に与えた。摂(津・)河(内・和)泉以外に知行を持っていた秀頼直臣は『大坂衆』と呼ばれ、合戦後も秀頼の家臣として遇されはしたが、秀頼の直接的な支配からは離れることになった。・・・秀頼が喪失した財産はこれだけではない。巨額の冨を生みだす主要な鉱山も秀頼の手から離れ、家康の直轄地となった。こうして秀頼の手元に残ったのが、摂河泉73万9688石なのである。いわば、この3カ国の領地以外にあった経済的基盤と家臣をすべて家康に奪われたのであり、秀頼が戦ったわけでもないのに、関ヶ原合戦後に『3カ国の大名に転落した』というのは、このように全国に分布していた豊臣家蔵入地と金銀山からの運上収入を失ったということなのである。関ヶ原合戦以前の年収1286億円が185億円になってしまったと言えば、その凋落ぶりは明らかだろう。秀頼のために挙兵した(石田)三成だったが、主家に残した損害はあまりに巨額であった」。
家康の総決算を見てみましょう。「元々家康が持っていた蔵入地は151万石。これは年収604億円である。これに加えて、金銀山からの運上金が年に397億円ある。つまり、家康は、関ヶ原合戦の勝利によって、一挙に毎年1205億円の収入を産む領地と金銀山を獲得し、年に1890億円という戦前の豊臣家を上回る財力を得たのである。さらに言えば、一門、譜代の領地220万石を加えれば、実に573万石が徳川家の実質的な支配下に入ったことになり、これは日本全土1850万石余の3割に相当する。その頂点に立つ家康は、まさに天下人となったのである。そして、この家康が奪った秀頼の蔵入地と金銀山こそが、慶長20(1615)年の大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼす原資となり、260年続く江戸幕府の重要な経済基盤となる。江戸幕府は、まさに豊臣秀吉の遺産の上に成り立っていたのである」。目から鱗が落ちました。
関ヶ原合戦を俯瞰しながら、著者が強い関心を抱いているのが、「島津家は西軍として関ヶ原合戦の本戦に参加しながら領地を失わずにすんだ唯一の大名であったのは、なぜか」という問題です。
「関ヶ原後の論功行賞を思いのままに実現した家康にとってみれば、もはや課題は、豊臣系大名の合意を得ながら、はやく全国の秩序を回復することにあった。唯一残った島津氏に寛大な処置を取ることでそれが果たされるとすれば、むしろ上出来なのである。過酷な処分を行って島津氏と戦いにでもなれば、島津氏は死にもの狂いで向かってくるだろう。秩序の回復はさらに遅れるし、不測の事態が起こらないとも限らない。家康には、すでに島津氏に断固たる処置を取る必要はなくなっていた。島津氏が逡巡しているうちに、風向きがよい方に変わっていたのである。島津氏の粘り勝ちと言ってもよいであろう。合戦当日から実に2年4ヶ月、これが関ヶ原合戦の最後の決着であった」。この解読によって、私の長年の疑問も氷解しました。