アインシュタインの一般相対性理論は、エディントンの皆既日食観測によって裏付けられた・・・【情熱の本箱(342)】
『アインシュタインの戦争――相対論はいかにして国家主義に打ち克ったか』(マシュー・スタンレー著、水谷淳訳、新潮社)は、ドイツのアルベルト・アインシュタインの一般相対性理論が、イギリスのアーサー・エディントンの皆既日食観測によって裏付けられた国際協力の息詰まる経緯を克明に再現したドキュメントである。アインシュタインとエディントン、そして、その周辺の人物たちの生々しい息遣いが感じられる力作だ。
私たち読者がハラハラ・ドキドキ・ワクワクさせられるのは、その時期が第一次世界大戦終結直後であり、ドイツとイギリスは直前まで敵同士という関係にあったからである。
「二人は5年前から同志だったが、顔を合わせるのは初めてだった。1921年6月の金曜日の午後、靴下なしで靴を履いた、みすぼらしい格好の科学者が、ロンドンのある建物の廊下をよろよろと歩いていた。本人が言うには、『顔は青白くて長髪、少々腹が出はじめている』。ふと見かけた人なら、『歩き方はぎこちなく、くわえたばこをしていて。・・・ポケットか手にペンを持っている。しかし足は曲がっていないし、見た目の欠点もなく。かなりハンサムだ』と気づいたはずだ。この人物のことをわざわざ紹介してもらわなければならない人なんて、世界中に一人もいなかっただろう。たてがみのような髪とふさふさの口ひげを見れば、世界一有名な学者のアルベルト・アインシュタインだと間違いなく分かる。アインシュタインを待っていたのは、えらが張っていて身なりの整ったイギリス人、痩せ形で筋骨隆々、思慮深くて鋭いまなざしをしている。その人アーサー・スタンレー・エディントンは、王立天文学会の会長に選出されたばかりだったが、アインシュタインとの絆を結んだのは、恒星の構造や運河の運動に関する専門知識ではなかった。エディントンは文字どおり世界中を旅し、非難を浴び、逮捕されかれ、何百年にもおよぶ科学の伝統と闘って、ベルリンからやって来たこの型破りな訪問者を科学界の象徴へと担ぎ上げる手助けをした。アインシュタインの相対論が正しいことを証明して、その真理を世界中に知らしめたのだ。二人が握手を交わしたバーリントンハウスは、イギリス科学界の中心に位置する壮麗な知の殿堂。『ドイツ人教授』にこの場に来てもらおうとする人がいるなんて、少し前までなら想像すらできなかったはずだ。この建物では、ドイツの研究は正真正銘の科学に数えられるのか、悲惨な大戦が終わったらドイツ人を科学界に復活させていいのかどうかをめぐって、激しい論争が繰り広げられていたのだ。しかしこのときメインルームは、アインシュタインの一言一句をいまや遅しと待つイギリス人科学者であふれかえっていた」と、格調高く幕が上がる。
「相対論は、空間内での銀河の運動を説明し、ブラックホールの存在を予言し、宇宙の大規模構造を明らかにしてくれただけでなく、身の回りの世界で我々が経験するきわめて基本的な事柄に疑問を突きつけた。アインシュタインは、時間と空間は我々が思っていたようなものとは違うと訴えた。現実を把握する上で使っている、これらのもっとも基本的な道具は、実は『歪んでいる』というのだ。重力は光を曲げ、双子は互いに違う速さで歳を取り、星々は天球上で形を歪め、物質とエネルギーは奇妙なことに表裏の関係にある。我々が見ていたのは、真の四次元宇宙の一部が歪んだ像にすぎないのだ。物事の真理にたどり着けたのは、複雑な数学と哲学的なパラドックスを理解できる者だけだった」。
「エディントンは、一度も会ったことのないこのドイツ人物理学者の主張を取り上げて、科学が国粋主義や憎悪に打ち勝てることを証明した。戦争によって国際的な科学団体が崩壊してアインシュタインは孤立していたが、エディントンは、まさにそのネットワークを復活させる鍵が相対論なのかもしれないと悟った。1919年、ヨーロッパがいまだ戦後の混沌とした状況にある中、エディントンはつかの間の日食をとらえるために、地球を股に掛ける遠征隊を率いた。『光は重さを持っている』というアインシュタインの大胆な予測を裏付けることのできる、めったにない機会だった。相対論を証明したと多くの人に受け止められたこの遠征によって、アインシュタインは世界中の新聞の一面に取り上げられた。大戦の大混乱の中から、新たな哲人が姿を現したのだ。アインシュタインの科学革命は、学問的と政治的という2つの戦いによってもたらされ、その戦場はベルリンからロンドン、そして宇宙の果てにまで広がっていった」。
「相対論の前に立ち塞がったのは、その内容から浮かび上がってきた哲学的な難題だけではなかった。宇宙の本質を説明する科学理論としては、200年以上前にアイザック・ニュートン卿が示したものがすでにあったのだ。ニュートンの理論は、示されたほぼすべての疑問に答えを出し、20世紀初めに知られていたあらゆる事柄の基礎をなしていた。当時の科学研究とは、ニュートンの理論体系に従うことにほかならなかった。・・・そんな中で、ぼさぼさ髪のドイツ人がニュートンに取って代わろうとしたのだ。・・・このためアインシュタインとエディントンは、相対論の正しさを世界中に納得させるたけでは十分でなかった。ニュートンの理論よりも『さらに正しい』、つまり、ニュートンを玉座から引きずり下ろすほどに並外れた理論であることを、証明しなければならなかったのだ。それがアインシュタインにとっても闘いだった。普遍的な理論を構築するだけでなく、それを人々に知らしめ、友人や敵にその重要性を納得させなければならなかった」。
本書を読み通すことによって、難解とされる一般相対性理論が理解できるように工夫されているのは、ありがたいことだ。
「アインシュタインは以下のように論じていた。太陽円盤の縁ぎりぎりに見える恒星を観測せよ(実際には恒星は何兆キロも遠くにあって、たまたま太陽の縁と一直線上に位置するにすぎない)。その恒星の像は、光線によって我々のもとに届く。その光が太陽のそばを通過するとき、時空の湾曲(重力)によって光線が曲がる。そのため地球上の観測者にとっては、その恒星の像が本来の位置からわずかにずれて見える。太陽の重力が邪魔していないときにその恒星が見えるはずの位置と、太陽の重力が作用しているときに見える位置とのあいだの角度は、一般相対論によって精確に予測される。その角度は秒(1度の60分の1の60分の1)という単位で表される。アインシュタインによると、その値は1.75秒角のはずだという。エディントンが使おうしていた写真乾板上では、それは1ミリの約60分の1のずれに相当する。当時の科学者の中には、あまりにも小さすぎて精確に測定できないはずだと異議を唱える人もいた。しかし天文学者にとってはさしたる問題ではなく、彼らは日々、これと同じくらい小さな効果を測定していた。エディントンは人々に、『その測定自体は、精度に関してとてつ、もない慎重さを必要とするものではない』と言い切った」。エディントンは、その言葉どおり日食の観測に成功し、「重力で光が曲がる」というアインシュタインの予測を見事に証明したのである。
なお、一般相対性理論のもう一つの重要な検証となる重力赤方偏移が精密に観測されたのは、実に2018年のことである。
また、アインシュタインの素の人間性を垣間見ることができるのも、本書の魅力の一つである。「アインシュタインの胃の病気はあらゆる個人的関係に影響を与えたらしく、それと同じ頃に家庭生活もこじれた。アインシュタインは、エルザとその成人した二人の娘と一緒に暮らしはじめて(『小さいハーレム』と呼んでいた)から数か月後に、20歳のイルゼと何らかの恋愛関係、または性的な関係になったのだ。何があったのかは詳しく分かっていないが、イルゼは突然、『アインシュタインは自分と自分の母親のどちらと結婚したいのか分からない』と悩みはじめた。すると驚くことにアインシュタインは、自分は関係ないから二人で決着をつけてもらって、どちらとでもいいから結婚したいと言ってのけた。伝記作家の一人が指摘しているとおり、アインシュタインはセックスと結婚は別物だと考えていた(生涯にわたって愛人がいたことからもそれがうかがえる)。この一件もとくに重要だとは思っていなかった。結局、イルゼはすぐさま身を退くことにした。エルザにとってどんなにつらい出来事だったかは想像するしかない。それでもこのすぐ後にアインシュタインは、ようやくエルザとの結婚に同意する。とてつもない気後れを償おうとしたのかもしれない。しかし問題は、アインシュタインが厳密にはまだミレヴァと婚姻関係にあることだった。正式に離婚するためにアインシュタインは、ミレヴァに苦渋の頼みごとをしなければならなかった。アインシュタインが不倫をしたと、ミレヴァに正式に告発してもらう必要があったのだ。そうすれば、それに基づいて離婚の手続きを進めることができる。ようやく有利な立場に立ったミレヴァは、アインシュタインのためにそのプロセスを急いで進めるようなことはせず、交渉を繰り返した。ミレヴァがさらにお金を要求すると、アインシュタインはこれ以上は送らないと言い返した。最終的にミレヴァは、アインシュタインの科学者としての成功に賭けるという提案を受け入れることにした。もしアインシュタインがノーベル賞を取ったら、その賞金はミレヴァが受け取ることになったのだ。この条件で取り引きは成立した」。
粘り強く自分の理論の確立に努力を重ねる40歳当時の若々しいアインシュタインの1919年に撮影された写真が収載されている。