読書について考える材料を提供してくれるエッセイ集・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2071)】
カケス(写真2~6)、ヒヨドリ(写真7)、コゲラ(写真8)、シジュウカラ(写真9)、エナガ(写真10)をカメラに収めました。因みに、本日の歩数は11,078でした。
閑話休題、エッセイ集『読書のちから』(若松英輔著、亜紀書房)で、とりわけ印象深いのは、「読めない本と時の神」、「読書の効用」、「十読は一写に如かず」の3篇です。
読めない本と時の神――。
「旅行に限らず、仕事の出張の場合にもいえて、毎回、どう考えても読み終えられない本を詰め、わざわざ荷物を重くして出かけている」。
私も、外出時は、鞄に必ず数冊の本と大量の付箋を入れて出かけるようにしています。途中で読む本がなくなったときの手持ち無沙汰に耐えられないからです。
「『読み通す必要のない本』の典型が歌集だ。句集、あるいは詩集でもよい。現代のひとの作品でもよいが、古いもの、古典と呼ばれるものも悪くない。私はしばしば旅に『古今和歌集』を持参する」。
読書の効用――。
「いつしか人は、本を『読む』という営みを通じて対話するようになった。・・・だが、誰と対話するのかは慎重に選ばなくてはならない。すなわち、そのときの自分にとって『よき書物』と出会うことが重要になってくる。良書と呼ぶべき本は確かに存在する。ただ、それが、誰にとってもよい本という意味であるなら、その存在は危うい。たとえば世に聖典と呼ばれるような書物さえ、いつでも、誰にとってもよいものであるとはいえない。それはときに危険な本にもなる」。
「良書とは、どこかに存在するものではなく、本とその人の良き出会いが成就したとき生まれるものなのだろう。良書はときに、人生の一冊と呼ぶべきものにすらなる。ただ、このことを実現するには、複数の出来事が織りなすように起こらねばならない。良書誕生の条件があるのである。一つ目は、その人のなかで出会うための準備ができていること。二つ目は、その本が読む者の変化に耐えうること。三つ目は、出会うべき時に出会っていること。四つ目は、再読する必要を感じること、すなわち、読み終わらない本であること」。
この件(くだり)を読むうちに、「たのしみはそぞろ読(よみ)ゆく書(ふみ)の中(うち)に我とひとしき人をみし時」という和歌が頭に浮かんできました。これは、幕末の歌人・国学者、橘曙覧(たちばなのあけみ)の歌集『独楽吟(どくらくぎん)』に収められた52首の中で、私の一番好きな作品です。
十読は一写に如かず――。
「(著者と親しく語り合うとは)『書く』ことにほかならない。デカルトは多くの本を読んだが、何よりも深く読んだ人だった。そして、その経験に呼応するように深く書いた人だった。『読む』と『書く』はまさに、呼吸のような関係にある。『読む』は言葉を吸うこと、そして『書く』は吐くことに似ている。『読む』あるいは『書く』という営みは、世に言われているよりもずっと身体を使う。『あたま』だけでなく、心身の両面を含んだ『からだ』の仕事なのである」。
「『読む』を鍛錬するのは『書く』で、『書く』を鍛えるのは『読む』なのである。『読む』と『書く』を有機的につなぐことができれば言葉の経験はまったく変わる。それを実現する、もっとも簡単な行為は、心動かされた文章を書き写すことなのである。本に線を引くだけでなく、その一節をノートなどに書き記す。じつに素樸な行為だが手応えは驚くほど確かだ。『十読は一写に如かず』ということわざもある。一度書き写す、それは十回の読書に勝る経験になる、というのである」。
私も、学生時代から今日に至るまで数十年に亘り、読書終了後に心に響いた一節を「抜き書きノート」に書き写す作業を続けています。