戦後、ソ連によってシベリアに抑留された日本兵たちの過酷・悲惨な実態・・・【山椒読書論(563)】
漫画形式の『戦後強制抑留 シベリアからの手紙』(北田瀧原作、森野達弥作画、平和祈念展示資料館)のおかげで、戦後、ソ連によってシベリアに抑留された軍人・軍属等の過酷・悲惨な実態を知ることができた。
「戦後強制抑留(シベリア抑留)とは、戦争が終結したにもかかわらず、約57万5千人の日本人がシベリアを始めとする旧ソ連やモンゴルの酷寒の地において、乏しい食糧と劣悪な生活環境の中で過酷な強制労働に従事させられました。寒さや食糧の不足などにより、約5万5千人が亡くなったとされています」。
「第二次世界大戦末期の1945(昭和20)年8月8日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して日本に宣戦布告した。まぁ、日本が負けそうだったから裏切ったんだな。そして南樺太や千島列島、満州や朝鮮半島に侵攻して来た。アメリカ、イギリス、ソ連の指導者が集まって密約を交わした。これがヤルタ会談だ。ソ連に南樺太や千島列島を領土とすること、日本に宣戦布告することなどを取り決めた内容だった。・・・(戦後)侵攻してきたソ連軍に対して日本兵たちは武器を捨てて降伏した。日本人たちはソ連兵によって、シベリアなどのソ連各地へ送られ強制的に労働させられたんだ。ソ連の指導者スターリンはその約束(=日本が受諾したポツダム宣言)を無視して、日本人を抑留し強制労働させるよう命じたんだ。当時、ソ連は戦争で国土が荒廃し、人もたくさん死んでいた。労働力も不足し、それを補うために日本兵らを使った。57万5千人もの日本兵らが拘束され、シベリアを中心とした地域に連れていかれ、奴隷のような過酷な労働を強いられた。それをシベリア抑留者というんだ」。
「最長で11年間も抑留された人たちがいた。抑留者たちはナホトカ港から船で京都の舞鶴港へ帰って来た」。
「シベリアで抑留生活を送った日本人は民間人も含めて57万5千人いた。その内5万5千人ともいわれる人々が日本の土を踏めずにシベリアの土となった」。
「私たちが出来るのは、抑留生活がどんなものであったかを伝え、あなたたちのような若い人たちに平和の大切さを知ってもらうことだと思います」。
この冊子は、もっと、もっと、広く読まれるべきだと痛感した。平和祈念展示資料館は、東京都新宿区西新宿2-6-1、新宿住友ビル48階、電話:03-5323-8709、ウェブサイト:http://www.heiwakinen.jp。