榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

徳川家康暗殺計画と、大野治長の淀殿との密通、この2つの風聞は家康が流した可能性大・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2315)】

【読書クラブ 本好きですか? 2021年8月14日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2315)

雨中でアサガオが咲いています。

閑話休題、『関ヶ原への道――豊臣秀吉死後の権力闘争』(水野伍貴著、東京堂出版)では、豊臣秀吉没後から関ヶ原の役の西軍挙兵までが学術的に検証されています。「このテーマに取り組むにあたって、本書では、書状や日記、いわゆる一次史料を中心に進めていく。また、必要に応じて二次史料も活用していく」。

「慶長4(1599)年閏3月の前田利家の死去、石田三成陣営の崩壊は、対立構造に大きな変化をもたらした。三成寄りの立場にあった島津義弘、寺沢広高、立花宗茂、小西行長ら九州の諸将も庄内の乱(島津家の内乱)への対応を通じて(徳川)家康の影響を受けるようになっていく」。

「家康は、家康暗殺計画と、大野治長の(淀殿との)密通、2つの風聞をきっかけとして、乱れた秩序を一新するという大義のもとで変革に着手した。前田利長をはじめ、大野治長、浅野長政、宇喜多秀家といった前田氏と親しい勢力を大坂から排除し、豊臣秀頼との一体化に成功。権力を大坂の家康に一極集中させた。こうした歴史的展開から鑑みれば、2つの風聞が家康から発せられた可能性は高い」。

「秀吉が没して以降、たび重なる権力闘争によって家康の権力は伸張を続けていった。そして、関ヶ原の役当時、諸大名が御家の存亡を賭ける選択に直面した時、奉行衆が有する正当性は、家康の実力に抗えるものではなかった」。

私はかねがね「直江状」の真偽に関心を抱いてきたが、著者の判定は説得力があります。「会津出征前夜の徳川氏と上杉氏の交渉を照らし合わせると、『直江状』は上杉氏が伊奈昭綱らに回答した内容と大きく相違があり、実在したとは考えられない」。「(家康が)会津征伐を正当化するには、噂となっていた上杉氏の挑発的な書状に実体を与え、世間に流布させるのが効率的といえる。しかし、上洛に応じる旨が書かれていた(直江)兼続の書状を用いれば家康に非があることになってしまう。また、上杉氏が上洛を拒絶する書状を出していた場合でも、6月以降に書かれたものであれば、家康の戦支度のほうが先になってしまう。そのため、糾明使に対する上杉氏の返答を正反対のものにした『直江状』が登場したのではないだろうか」。

もう一つの関心事、「小山評定」はフィクションなのかについても、明快な回答が示されています。「浅野幸長書状は小山評定の実在を示す史料なのである」。