本書のおかげで、韓流ドラマ『チャングムの誓い』、『イ・サン』、『トンイ』の歴史的背景が理解できました・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2385)】
千葉県・柏の「柏の葉第2水辺公園」は生物多様性が保たれているので、私の気に入りの散策コースです。しかし、調整池なので、雨天の翌日、翌々日など門が閉まっていて、がっかりすることがあります。数日前に、たまたま出会った管理者の宮氏にこのことを話したところ、早朝に、「今日は門を閉めています」とか「今日は開いています」と電話がかかってくるようになり、大助かり。私の日々の自然観察は多くの人に支えられているのです。カキを啄むオナガ(写真1~4)、高鳴きするモズの雌(写真5、6)をカメラに収めました。モミジバフウ(写真7~11)が紅葉しています。トキワサンザシ(写真12、13)、タチバナモドキ(写真14、15)が実を付けています。
閑話休題、私は一時、韓流ドラマに嵌まり、とりわけ夢中になったのは、『チャングムの誓い』、『イ・サン』、『トンイ』の3作品です。当時、ドラマをより深く楽しむために、その歴史的背景を調べたりしたものです。
『韓国の歴史』(李景珉監修、水野俊平著、河出書房新社)では、古代から現在までの韓国歴史が要領よく解説されているが、やはり、気になるのは、上記3作品の時代です。
チャングムは朝鮮王朝第11代の中宗の主治医を務めた女性だが、彼女に関する詳しいことは伝わっていません。
「(第10代の)燕山君は稀に見る暴君で、統治理念の儒学を軽視したり、全国から美女を集めて妓生を養成し、国立大学である成均館を遊戯場にしたりした。こうした王の放蕩にたまりかねた勲旧派は、朴元宗、成希顔、柳順汀らが中心となって1506年にクーデターを起こす。これによって燕山君は廃位され、(第9代の)成宗の次男の晋城大君が王として擁立された。これが『中宗』である。このクーデターは『中宗反正』と呼ばれている。廃位された燕山君は江華島に流刑にされ2カ月後に病死した」。
「中宗(在位1506~1544年)は燕山君時代の乱れた国政を立て直すために、性理学の理念に基づいた政治を基本として、士林派を多く登用することにした。その中心となったのが、趙光祖である。趙光祖(1482~1519年)は性理学の理念に立脚した国家改革に着手し、儒教的道徳の普及と農村の相互扶助、民衆の福利増進を図った」。
トンイは下層階級から第19代の粛宗の側室にまで上り詰めた女性で、彼女の息子が第21代の英祖です。
「朝鮮では、(第15代の)光海君から第19代の王・粛宗(在位1674~1720年)の代までに戦火によって荒廃した農村の復旧と枯渇した国家財政を立て直す改革が行われている。土地制度の整備が行われ、農民の租税負担を軽減するための『大同法』も全国で実施されるようになった。農業技術も発展し、商工業も活性化されていった」。
「第21代の王・英祖(在位1724~1776年)は、激化する派閥党争をなくすために『蕩平策』という政策を1725年から推進した。『蕩平策』とは王権を強化して各派閥から偏ることなく人材を登用して各党派の均衡を維持しようと実施した政策をいう。・・・限りなく中立公正であれば王道は広がっていくという意味である。英祖は自分を擁立した閔鎮遠ら老論派を主として政権を築き、老論派と対立する少論派や南人派からも人材を登用して党争の弊害を未然に防ごうとした。この政策を通じて王権は強くなり安定していった。英祖はこのほかにも数多くの社会改革を行った。農民の租税負担を軽減するための『均役法』をはじめ罪人の人権を尊重して過酷な刑罰を禁止したり、死罪に当たる罪を犯した者には三審制の裁判を行ったりする改革も行っている。しかし、蕩平策によって力を弱めていた老論派をはじめとする各派は主導権を取り戻す機会を虎視眈々と狙っていた」。
「1749年、英祖は健康上の理由から側室の子・荘献世子に国政を代行させるようになると、各派はこの機会を逃さず、世子を担ぎ出して政権をわがものにしようと画策を始めた。こうした情勢に危機を感じた老論派は、王と世子の関係を断ち切るように企んだ。荘献世子が王政を代行して13年後、英祖の外戚・金漢耈(英祖の継妃・貞純王后の父)は荘献世子の非行を列挙して父王・英祖に上訴したのである。金漢耈は老論派の巨頭だ。英祖は激怒して、事の真相を確かめることなく、世子を庶民の身分に落として米櫃に押し込めて殺してしまった」。
「朝廷内はこの事件を契機に事件を正当化する老論派を中心とした『僻派』と、荘献世子の立場に同情する南人・少論派を中心とした『時派』とに分裂した。老論僻派が世子を誹謗したのは、老論に対立する勢力と親しい荘献世子の即位を恐れたためだろう。後に英祖は荘献世子を殺してしまったことを悔いて世子に『思悼世子』という諡号を与えている」。
イ・サンは英祖の孫で、第22代の正祖です。
「1776年、英祖が亡くなると、荘献世子の息子の正祖が即位した。第22代の王となった正祖(在位1776~1800年)は英祖の遺志を引き継いで蕩平策を継続する一方、文物制度の補完・整備を推し進めた。正祖は王位にいる間、父を死に追い込んだ老論僻派と対立したが、世宗に次ぐ名君と呼ばれるほどの治績を残している。全国に暗行御史を派遣して地方の情勢を把握して問題を解決するとともに、地方両班の悪政を抑制し、1791年には、私商たちの活動と地位保障のために『辛亥通共』を実施した。だが、こうした社会改革にもかかわらず、農民たちの生活は悪くなる一方で、それに伴い国家の財政も悪化の一途を辿った」。
「そのため、正祖は儒学者らが主張する節約と質素だけでは、財源の確保が無理だと判断し、『利用厚生』による生産力の向上と民生問題の解決を主張する学者を起用して農業生産の向上を図った。さらに国王の政治を討論し、文化事業を推進する機関として奎章閣を設置し、学問を活性化させた。英祖・正祖の治世期には、朝鮮の文物や制度について解説した百科事典である『東国文献備考』や『経国大典』以降の法律についてまとめた『続大典』などが刊行されている。・・・(正祖に起用された奎章閣の学者たちは)伝統的な儒教を批判し、社会の事実に向き合い改善していこうという『実事求是』の思想を持っていた。彼らを実学派という」。
「だが、1900年に正祖が亡くなると状況は一変、幼い純祖が第23代の王として即位すると老論僻派が政権を握った」。
返す返すも、正祖が47歳という若さで亡くなったことが悔やまれます。