榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

本書のおかげで、イエスの奇跡物語の謎が解けた・・・【情熱的読書人間のないしょ話(759)】

【amazon 『図説 聖書物語 新約篇』 カスタマーレビュー 2017年5月19日】 情熱的読書人間のないしょ話(759)

千葉・柏市の柏の葉公園のバラ園は、80品種のバラが咲き競い、芳香を漂わせています。このうちから、女房との大激論を経て漸くトップ12まで絞り込むことができました。因みに、本日の歩数は10,963でした。

閑話休題、『図説 聖書物語 新約篇』(山形孝夫著、山形美加図版解説、河出書房新社・ふくろうの本)は、その絵画と文章が相俟って、私たちを新約聖書の世界に誘ってくれます。

「新約聖書はキリスト教の正典であるが、もとをたどれば、それぞれが独立した27の文書をひとつにまとめたものである。著者も違えば、執筆年も執筆場所もそれぞれ違う。内容さえもがまちまちの文書であった。それにもかかわらず、そこからひとつの主題が一本の糸のようにくりだされるのは、イエスに対する弟子たちの思いが、一枚の織物の縦糸と横糸のように、そこに息づいているからであろう。その中心に福音書と呼ばれる物語文学がある。ところで、福音書という形の物語文学を最初に生みだし、イエスの神の国運動を記録したのは、マルコという無名にひとしい人物であった。イエスの死から、すでに40年が経っている」。

「イエスの神の国運動に対し、それと真っ向から対立し、イエスの前に立ちはだかる敵対勢力があった。パリサイ派と呼ばれるユダヤ教の一派である。彼らは、正統ユダヤの律法主義を振りかざし、数々の律法違反のゆえにイエスの神の国運動を攻撃した。ユダヤの秩序への反乱者、タブーの侵犯者、ローマ支配体制に対する反権力の謀反人など、数々のラベルがイエスの運動に貼りつけられた。闘争する二つの力は、最後まで和解することのないままに、破局に向かって進行してゆく。イエスは告発され、逮捕され、弟子たちが固唾を呑んで見守る中を刑場へと引き立てられていった。マルコ記者は、このようにイエスの死でもって物語の最終章を閉じている。ガリラヤでの運動開始から1年たらずの短かすぎる終局。これが、マルコ記者の描くイエスの神の国運動のすべてである」。

イエスの先駆者とされる洗礼者ヨハネの首と、それを望んだとされるサロメを描いた絵画を目にすることがありますが、ギュスターヴ・モローが描いた「出現」は独特の光を放っています。「舞うサロメの前に突如出現するヨハネの首は、彼の斬首の運命を告げている。王妃のメッセンジャーに過ぎなかったサロメは、モローによって『ファム・ファタル(男性を破滅に導く宿命の女)』へ変貌し、その新しい女性像は世紀末芸術において大流行した」。

イエスの神の国運動がどのようなものであったのかが明らかにされています。「イエスの病気なおしの活動は、こうした(ある特定の病気が、神の呪いや穢れとして、社会的制裁の対象とされた)人びとに強制的に背負わされた神の呪いという名の病気のラベルをひきはがし、ユダヤ社会の最底辺に、人びとから差別され、生きながら屍骸のように拒否されつづけてきた人びとを解放する力となった。そのことが、イエスの神の国運動の驚異であり、奇跡であったのだ。イエスと弟子たちは、ユダヤ社会を支配する差別の力学に真正面から挑戦する形で、こうした病人に接近し、彼らの社会復帰をうながした。当然、病気にたいして忌まわしいラベルを貼り付けるパリサイ派の律法主義者と衝突する。彼らこそが、呪いという名の病気の神話の伝道者であったのだ。正統ユダヤを標榜するパリサイ派は、こうしたイエスの運動を反体制の異端として告発し、穢れた病人や罪人との接触を理由に、タブーの侵犯者として攻撃した。イエスの治癒活動は、このようにして、体制ユダヤからしだいに閉め出されてゆく」。

イエスが行ったとされる奇跡の実体が語られています。「福音書に記載された、一見、荒唐無稽ともみられる、おびただしい数の病気なおしの奇跡物語は、こうした社会史的事実を背景に成立し、救いを求める人びとの魂に、治癒神イエスの登場を克明に刻みつけてゆくことになる。イエスによる病気なおしの物語こそは、キリスト教成立の埋もれた歴史の謎を解く重要な鍵を秘めている」。

社会の底辺に生きる貧しい人々、罪人のラベルを強制された被差別者の群れ、そうした社会の最下層の打ちひしがれた人々に対するイエスが行ったこと。レンブラント・ファン・レインやロレンツォ・ロットの「キリストと姦淫の女」に、こうした行いの場面が生き生きと描き出されています。

ピエタと言えば、ミケランジェロ・ブオナローティの「ピエタ」がよく知られていますが、ロッソ・フィオレンティーノやジョヴァンニ・ベリーニの「ピエタ」には年相応のマリアが描かれていることを知り、なぜかホッとしました。

本書のおかげで、イエスの奇跡物語に対する長年の疑問が氷解し、すっきりした気分になることができました。