福田赳夫が、これほど魅力的な政治家だったとは・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2389)】
マユミ(写真1~3)の実から種が顔を覗かせています。イロハモミジ(写真4、5)、ニシキギ(写真6~8)、モミジバフウ(写真9.10)が紅葉しています。黄葉しているモミジバフウ(写真11~13)もあります。イチョウ(写真14)が黄葉しています。因みに、本日の歩数は11,062でした。
閑話休題、私は福田赳夫という政治家を誤解していたことを、『評伝 福田赳夫――戦後日本の繁栄と安定を求めて』(五百旗頭真監修、井上正也・上西朗夫・長瀬要石著、岩波書店)に教えられました。
私の誤解には、福田が岸信介の子分であったこと、大衆人気のある田中角栄の敵役だったことが大きく影響していたようです。
「自他共に認めるポスト佐藤(栄作)の最有力候補になった福田であったが、自民党総裁選で田中角栄の前にまさかの敗北を喫する。思わぬ回り道を経て、ようやく1976年に成立した福田政権は、経済を建て直し、外交・内政両面で着実な業績を上げ、長期安定政権になることが期待された。だが、初めて行われた自民党総裁予備選挙で、田中の支援を受けた大平正芳に敗れて不完全燃焼のまま退陣を余儀なくされたのである。金権選挙をほしいままにする田中政治に対し同じ手法での応酬を否定した結果であった」。
「福田の政治家としての最大の強みは、経済・財政政策の運営能力であった。実際、財政家としての福田の実力は戦後日本の政治家のなかでも卓抜していた。1960年代と70年代の経済危機は全て彼の手によって処理されたといっても過言ではない。福田は経済政策に関しては特定のブレーンに頼らず自ら対処を重ねた。そして、学説にとらわれず、あくまで実体経済の臨床医に徹した現実主義者であった。『(景気の)山髙ければ谷深し』の極意を、福田は昭和初期の若き官僚時代に仕えた井上準之助や高橋是清から学んだ。高橋財政の後継者を自負する福田は、好況期と不況期の双方にわたり、いわば日本経済の脈をとって誤まらなかった名医であった」。
「福田を見るうえでもう一点欠かせないのが、国際協調主義者としての側面である。・・・1977年のいわゆる『福田ドクトリン』に示されたように、経済的成功によって国際的地位を向上させた日本は、『軍事大国』の道を歩まず、『平和大国』の道を歩むべきだというのが彼の一貫した主張となった。諸外国との間に誤解や摩擦が絶えない中で、文化面から相互理解を深めるため国際交流基金を創設したのも福田であった」。
「しかしながら、こうした福田の実像は、これまで正確に描かれてきたとは言いがたい。戦後政治史をひもとくと、吉田茂を源流とし、池田勇人、佐藤栄作へと受け継がれた戦後保守政治の流れを『保守本流』と称し、これに対して、岸信介の流れを受けた福田は『傍流』と位置づけられることがある。・・・田中が日米関係を軋ませながら日中国交正常化と資源外交を展開したのに対し、福田は日米基軸を前提として丁寧に協議しつつ日中平和友好条約を結び、日本外交を平和的に全方位化しようとした。政策路線から言えば、福田の方が真の意味で『保守本流』と言えよう」。
「福田は、日本政治が国と公共に資することを見失い、良識から外れて金権政治や派閥政治にあけくれる姿に強い危機感を覚え、党改革の必要性を繰り返し訴えた。たとえ、自身を政治的苦境に追い込むことがわかっていても、筋の通らないものに対しては、決して信念を曲げようとしなかった」。
「福田はまた、権勢欲や虚栄心の少ない政治家であった。政治に倫理を求め、生活の浪費を戒め、政界の実力者になってもその質素な生活態度は何ら変わらなかった。豪邸や別荘を持つ政治家が珍しくないなか、福田は大蔵官僚を辞めて浪人時代を送っていた頃に購入した世田谷区野沢の自宅から生涯離れようとはしなかった。着る物や食事を含め、自分の身の回りのことにどちらかといえば無頓着であった。若き日の官僚時代から亡くなる直前まで、文字通り国のことを考え続けた人生であった」。
執筆・監修陣の福田への敬意溢れる力作です。