時の権力者に臆せずものが言えるかが、真のジャーナリストかの判定基準・・・【リーダーのための読書論(74)】
時の権力者に迎合するジャーナリストは、ジャーナリストという肩書を即刻、返上すべきである。権力者をチェックするのが、ジャーナリストの仕事の第一義だからだ。この意味で、時評集『破壊者たちへ』(青木理著、毎日新聞出版)の著者・青木理は、真のジャーナリストと呼べる数少ない人物の一人である。
「視野を広げてこの20年ほどを振り返れば、排他や不寛容の風潮を為政者が盛んに煽り、提灯持ち連中が囃し立て、隣国やマイノリティーに薄汚い悪罵を浴びせる情景がすっかり日常化した。同時に為政者たちは修正主義的な歴史観を振りかざし、戦後かろうじて堅持してきた歴史観や歴史認識をひどく歪ませている。その為政者の放埓な権力行使を制御する憲法も真正面から蔑ろにされた。国権の最高機関たる国会も軽んじられ、しかも国会には反知性的なチルドレンが増殖し、為政者の無茶な振る舞いにただつき従っているのみ。すべてが劣化し、統治機構は根腐れた。口を開けば嘘、詭弁、虚言ばかりの為政者は禁断の人事権も放埓に行使し、政権と距離を置くべき要職にお友だちを送り込み、官僚は忖度とヒラメの気風に席巻された。国家の記録たる公文書は隠され、棄てられ、果ては為政者の嘘に沿って改竄され、そもそも作られない。すさまじいまでの退廃である」。著者が言うとおり、本書は、まさしく、破壊者たちに向けた抵抗継続宣言である。
例えば、2018年7月1日の「金魚の糞」は、こんなふうである。「皮肉を込めて言えば、『100%ともにある』という台詞に偽りはない。異形の大統領が右といえば右、左といえば左、要するに終始一貫した金魚の糞、あるいは下駄の雪。挙げ句の果てに日本独自の外交課題である拉致問題まで大統領に懇願する始末。要するに信念も構想もなく、異形の大統領に従属し、振り回され、すがりついているだけ」と、本質を衝いている。
2018年7月8日の「『腹心の友』」も手厳しい。「疑惑が一大政治問題と化してすでに1年、渦中の人物がようやく公の場に姿を見せた。首相との親密な関係をテコに半世紀ぶりの学部新設を成し遂げ、その過程で行政が大きく歪められた――そんな疑惑の眼を向けられている加計学園の加計孝太郎理事長である。・・・わざと人を怒らせようとしているのか、心中は定かでないし、知るよしもない。ただ、県への虚偽説明などという主張自体、首相を守るためにひねり出した屁理屈。だから記憶も記録もないと開き直り、しかし責任は下に押しつけて平然とする。誰ぞの振る舞いと完全に相似形だが、実は臆病で小心なのだろう。地元記者から厳しい質問が飛びはじめると、事務方に『もういい?』『いいね?』と小声で助け舟を求め、30分の会見すら耐えきれずに退席した。その顔つきや振る舞いに姑息で小心な本質がにじみ出る。こんな人物が一国の首相の『腹心の友』だというのだから、なんだか情けなくて泣きたくもなってくる。もっとも、首相の生い立ちを取材した私は、『人を見る目のなさ』が首相の、数えきれぬほどある欠陥の一つだと思っている。現に彼が寵愛した閣僚やチルドレン議員を身よ。質(たち)の悪いネトウヨまがいの連中が群れをなしている」。
2019年10月13日~27日の「原発という化け物」の分析には、目から鱗が落ちた。「原発という巨大な発電装置が一方で巨大な利権装置でもあるという事実を、今回の一件は見事なまでに浮き彫りにした。しかも福島第1原発の事故をめぐる強制起訴裁判では、東京地裁が原発を『絶対的安全性の確保まで前提していなかった』として東京電力の旧経営陣に無罪を言い渡したばかりであり、先に私は、せめてここから教訓だけは引き出そうと書いた。原発は断じて『安全』などではなく、事故が起きても誰も責任を取らぬ化け物なのだという教訓を、と。今回、さらに教訓を追加せねばならない。原発とは同時に巨大な利権装置であり、関係者は誰もが甘い汁の恩恵にありつくが、いざとなるとその責任も地元に押しつけ、電力会社は被害者ヅラで逃げを打つ、と」。
2020年2月16日の「無恥」は、あまりに的を射ているので、苦笑せざるを得ない。「この政権は、強い。『恥』の概念自体がないのだから、あらゆる批判は中枢に刺さらない。いくら醜態を晒しても平気の平左、顔を赤らめることもなく嘘や詭弁、ごまかしや責任転嫁ですべての批判をなぎ倒すことができる。いつしか批判者は疲れ、いつまで同じことをやっているのかと批判者に批判され、あらゆる批判が無効化されていく。権力の周辺で甘い蜜にありつく者たちにとって、これほど有難い政権はないだろう。担いでいるのは『無知』で『無恥』な神輿。ある意味で『無敵』。さて、それとどう対峙するか、かなり厄介な問題である」。
2020年3月15日の「権力は悪」では、「無知」で「無恥」な政権の実態が暴かれている。「検察の悪弊に真正面から斬り込むならともかく、検察まで『私物化』しようと謀る今回の政権の横暴は常軌を逸している。しかも直近の国会審美を眺めれば、後づけで法解釈を変更したり、その法解釈変更の決裁手続きすらまともにとっていなかったり、要は政権自身が横暴の重大性を深く考えていなかったのだろう。『無知』で『無恥』な政権の本質がここにも如実にみてとれる」。
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