著者が『愚管抄』を書いた慈円になり切って、『吾妻鏡』を批判的に解説・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2859)】
ユウチャリス・グランディフロラ(アマゾンユリ、ギボウシズイセン。写真1)、アンスリウム・アンドレアナム‘リリー’(写真2)が咲いています。キンカチャ(写真3、4)が蕾を付けています。
閑話休題、『眠れないほどおもしろい吾妻鏡』(板野博行著、三笠書房・王様文庫)は、著者が『愚管抄』を書いた朝廷側の天台座主・慈円になり切って、『吾妻鏡』は北条氏に都合よく編集されていると批判的に解説していることで、類書と一線を画しています。
個人的に、とりわけ興味深いのは、●北条泰時、●源通親と九条兼実、●三浦義村――についての件(くだり)です。
●北条泰時
「貞応3(1224)年6月、父(北条)義時が急死した。(北条)泰時は(伯母・北条)政子の後見のもと、家督を相続して42歳で第3代執権となる。遅咲きながら、ここから泰時が真骨頂を発揮し始める。泰時の政治体制の特色は、集団指導制、合議政治を打ち出したこと」。泰時は権力争いの愚を封じたのです。
北条氏は、なぜ将軍にならなかったのか――。「表に将軍を立てて裏で操る、という二重構造を取ったのが泰時の執権政治だ。主人である将軍を意のままに操り、何か問題があれば責任を取らせてスゲ替える。賢いやり方ではあるものの、これは同時に北条氏の限界ともいえる。実質的な支配者でありながら、ついに鎌倉幕府が滅亡するまで自ら将軍にはならなかった。いや、『なれなかった』というほうが正しい。それは、本来御家人に過ぎない北条氏の『家柄の低さ』が原因だと考えられる。初代(北条)時政は桓武平氏の子孫と称していたけど、実はそれは嘘だろう。時政以前の出自が不明なんて、怪しすぎる。家柄ロンダリング確定だ。天皇が『神』の子孫であるように、将軍になるにも正統な血筋が必要であり、北条氏にはその資格がなかったんだね。だから幕府の『番頭』の地位に甘んじながら、実質的にはすべてを支配する、という執権政治を行ったわけだ」。
●源通親と九条兼実
「(源通親が源頼朝の死を知らないふりをして臨時の除目を行った)直後に頼朝の死が知れ渡ると、通親の企みはバレた。でも、そこは狸の通親。周りからの非難を避けるために、自分も初めて頼朝の死を知りましたとバレバレの嘘をつき、弔意を表すると称して家に閉じ籠もってしまった。これを見た藤原定家は、その日記『明月記』に<奇謀の至り>と怒りの筆致で記している。『ふざけるな!!』と誰もが言いたいよね」。
通親は巧みな根回しでライヴァルの九条兼実を関白の座から追い落とすことに成功します。「朝廷から追放された兼実は、二度と政権の中枢に戻ることはなかったけど、流罪などに問われることもなく、出家して晩年を過ごした。兼実は真面目なだけあって、16歳だった長寛2(1164)年から没する7年前の正治2(1200)年まで、37年にもわたって日記『玉葉』を書き綴っていた。『玉葉』は、当時の状況を知る第一級の史料として有名なものだ」。因みに、兼実は慈円の同母兄です。
●三浦吉村
「京で冷静に鎌倉のことを見ていた藤原定家は、その日記『明月記』で(三浦)義村のことを<八難六奇の謀略、不可思議の者か>と評した。要するに、『権謀術数の限りを尽くし、腹に一物あって読めない男』ということだけど、むべなるかな」。