榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

J・D・サリンジャーは、なぜ姿を隠したのか――老骨・榎戸誠の蔵出し書評選(その50)・・・【あなたの人生が最高に輝く時(137)】

【月に3冊以上は本を読む読書好きが集う会 2024年4月3日号】 あなたの人生が最高に輝く時(137)

●『サリンジャー――生涯91年の真実』(ケネス・すらウェンスキー著、田中啓史訳、晶文社)

J・D・サリンジャーは、なぜ姿を隠したのか。91歳で亡くなるまで、どういう生活を送ったのか。こういうサリンジャー・ファンが一番知りたいことを、『サリンジャー ――生涯91年の真実』(ケネス・スラウェンスキー著、田中啓史訳、晶文社)が惜しげもなく教えてくれた。それもそのはずである。この著者自身が、2004年からサリンジャーの人と作品に関するウェブサイトを続けている熱心なサリンジャー・ファンなのだから。

「2010年1月27日に91歳の生涯を閉じたJ・D・サリンジャーは、1965年に最後の作品を発表していらい、45年の長きにわたって沈黙を守っていて、文字どおり引退した身だったが、それでも彼の死は全世界で大きく報じられた。それは、彼がまだ作品を発表していて人気絶頂だった1953年にニューハンプシャー州コーニッシュの山中に移り住んで、世間との交わりを絶ち、その私生活が謎につつまれていたからでもあった。そもそもコーニッシュに隠棲するまえから、自分の生い立ちや家族のことはほとんど語らず、彼の人生は不明なことだらけだった」と、訳者が述べている。

膨大な資料を渉猟し、緻密な追跡調査を行い、出生秘話、家族、従軍体験、失恋、結婚、離婚、再婚、再々婚、創作活動、編集者・出版社との軋轢、マコミに対する不信感など、埋もれていた数々の新事実が明らかにされている。熱烈なサリンジャー・ファンだけに、著者のサリンジャーに注ぐ眼差しは温かい。その一方で、長女が『我が父サリンジャー』(マーガレット・A・サリンジャー著、亀井よし子訳、新潮社)で指摘したサリンジャーにとって不都合な情報は記載されていない。

「1953年2月16日、J・D・サリンジャーはニューハンプシャー州コーニッシュにある90エーカー、11万坪の丘陵地の正式な所有者となった。サリンジャーの引っ越しを、人生が芸術を模倣する、と解釈したくなるのは無理もない。『キャッチャー・イン・ザ・ライ』でホールデン・コールフィールドは、隣の州ヴァーモントへ逃げていって、孤独で暮らせるよう森に小屋をみつける夢をみている。世の中から離れた暮らしをたしかにするため、ホールデンは聾唖者のふりをすることを計画する。『あとはもう一生だれともしゃべらなくていいってことになっちゃうはずだ。そして、みんなは僕のことを放っておいてくれるだろう』と考える」。この頃のサリンジャーは幸せの真っ只中にいたのだ。

「このエピソードは些細なことのようだが、出版社にたいする抑えがたいサリンジャーの軽蔑を示している。・・・この出来事はサリンジャーが『ゾーイー』でも描いていた、芸術の制作と利益の獲得の葛藤という問題に、じかに関わっている。サリンジャーは『ゾーイー』のなかで、成功という精神的な落とし穴を警戒しながらも作品発表をつづけることを、長ながと論理的に主張していた」。作品を生み出す喜びと、それによって金を稼ぐということの生々しい関係は、サリンジャーのような人間にとっては、看過し得ない問題なのだ。

「サリンジャーは(世界第二次大戦の)戦争中ずっとそんな(死の)危険にとり巻かれていたので、死は気高さなどなく、わけもなく犠牲者を選ぶものだと考えるようになった。彼自身は生きのびたが、それはとくに理由などない偶然の結果だった。・・・その結果、サリンジャーは兵役を離れても、凝り固まった宿命論を生涯にわたって抱きつづけた」のである。

「1960年には、サリンジャーの宿命論は宗教的な確信にまで達していた」のである。宿命論と特殊な宗教への帰依は、サリンジャーを形作る重要な特質と言えよう。

「サリンジャーには頼れる友人がほとんどいなかった。多くの友人と縁を切ってきたのだ」。

「自分の仕事の習慣がもとではじまり、マスコミのせいでさらに強まった隔絶状態は、いまや彼の抱く宿命論によって鍵をかけられ、閉じこめられた孤立にまで至っていた。たしかにサリンジャーは自らすすんで、世間から退く生活を選んでいた。孤独はいつのまにか進行して、しだいに彼を包みこんでいた。悲しいことに、自分でもそんな兆候は察知していたが、生き方は変えられなかった。仕事は神聖な責務となっており、孤独と隔絶がその責務を果たすための代償であることは、彼も認めていた」。

「サリンジャーは、発表したい気持ちはなくなっても、あいかわらず熱心に執筆をつづけていた。・・・それと同時に、プライヴァシーの保持にはさらにこだわるようになり、次から次に舞いこむ作品集の依頼を断るいっぽう、これまで許可している本にたいしては徹底的な管理をつづけた。これは彼の長年の姿勢だったが、その後さまざまなことがあって、特別な執念のようになっていった」。サリンジャーが発表を目的としない執筆を続けていたことに、救いを感じるのは、私だけだろうか。

「サリンジャーはもはや発表はしていなかったが、毎日の生活はきまったとおりの手順でつづけられていた。朝早く目覚めると、瞑想と軽い朝食のあと、書斎にこもって執筆した。庭いじりを楽しみ、自然食やホメオパシー療法に深い関心を示した。ニューヨーカー誌の動向には遅れずついていき、ウィリアム・マックスウェルやウィリアム・ショーンとの友情はつづいていた。彼は東洋思想の研究を怠らず、自己実現協会やニューヨークのラーマクリシュナ・ヴィヴェーカーナンダ・センターとのつながりも保っていた」。

「1990年代後半にはサリンジャーは80歳に近づいたが、だんだん耳が遠くなったり、年齢のせいでちょっと前かがみになったものの、あいかわらず健康だった。髪は真っ黒だったのが真っ白になったのは何年もまえだが、目は若いころアーサイナス大学の女の子たちを魅惑したときのままの、黒い深みを保っていた。子供たちはとっくに成長して、自分の道を歩いていた。・・・サリンジャーの人生をふりかえれば、彼に惹かれた印象的な女たちが大勢いたが、賢明な選択をしたことはあまりなかった」と、彼の女性観については手厳しい。

サリンジャー・ファンには見逃すことのできない一冊、これが私の率直な結論である。