私の結婚観と不思議なほど一致する大庭みな子、どうしても一致は無理な宇野千代・・・【情熱的読書人間のないしょ話(3824)】
女房が購読している「ハルメク」の10月号に、私のかなり年下の友人で筋金入りの全体主義反対論者の万仲豊さんのお母上・万仲純子さんが登場! お茶の女子大学の英文科の同級生11人が「加島葵」という一つのペン・ネイムで海外児童書の翻訳を85歳まで40年続けてきたという、我々高齢者を元気づけてくれる記事です。
閑話休題、『宇野千代 大庭みな子』(宇野千代・大庭みな子著、小池真理子編、文春文庫・精選女性随筆集)を読んで、私の結婚観と不思議なほど一致する大庭みな子、どうしても一致は無理な宇野千代――という鮮やかな対比を見出しました。
●大庭みな子の「幸福な夫婦」には、こうあります。
▶幸福な結婚とはいつでも離婚できる状態でありながら、離婚したくない状態である。夫にすがりつく以外に生きられない女は夫を束縛してうるさがられるか、夫に憐れまれるかどちらかである。妻に去られることを怖れているような男はたいていは魅力がない。独りで生きなければならない場合を常に予期しながら、現在の慰め合える状態を尊いものに思うのが結婚生活を幸福にする方法である。
▶魅力のある妻や夫にするには時間がかかる。夫の魅力は妻によって育てられ、妻の魅力は夫によって育てられるものである。二十年間結婚していてもつまらない男の妻は、つまらない女である場合が多いし、長い間結婚していて魅力のある男は魅力のある妻を持っているものである。・・・だから、立派な男がつまらない女を妻にしているのや、魅力のある女がつまらない男を夫にしているのを見るのは哀しいものだ。その人たちはひどく不運か、怠け者だったために、人生を半分しか生きられなかった人たちだ。そして、結局は、昔は持っていた魅力をすっかりすり減らしてつまらない人間になって死ぬ場合が多い。
「共に生きる」は、こう結ばれています。
▶家出をしても、不倫をしても、何よりも先ず最期まで共に生きられるパートナーを探しなさい、それから世界のことを考えなさいというのが私の遺言である。目が醒めても傍らに伴侶がいないなんて侘しいではないですか。
ここまではっきり言い切れるとは、さすが、大庭みな子ですね!
●結婚観が異なっていても、「花咲婆さんになりたい」の宇野千代には敵わないなと思いました。
▶私はいつでも、風呂から上がると、ちょっとの間、鏡の前に立って、自分の裸の体を見る。・・・ボッチチェリのヴィーナスの画に似ている、と思う。・・・しかし、私は、自分の裸の体がボッチチェリのヴィーナスのようだと、しんから思う訳ではない。七十をとうに越している自分の体が、ヴィーナスのようである筈がない。・・・私はもう老眼で、眼の前のものが、はっきりとは見えない。その上、湯気の中で、見るものがぼうっとしている。私は、その、よくは見えない自分の眼のことも、幸福の一つに数える。・・・人が聞いたら、吹き出して笑って了うようなことでも、その中に、一かけらの幸福でも含まれているとしたら、その一かけらの幸福を自分の体のぐるりに張りめぐらして、私は生きて行く。幸福のかけらは、幾つでもある。ただ、それを見つけ出すことが上手な人と、下手な人とがある。幸福とは、人が生きて行く力のもとになることだ、と私は思っている・・・。
この「幸福のかけら」論は、私の幸福論とぴったり一致しています。