榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

頼りなかろうと、神や科学にしがみつかないで生きていこう・・・【山椒読書論(169)】

【amazon 『世界を、こんなふうに見てごらん』 カスタマーレビュー 2013年3月30日】 山椒読書論(169)

著書や訳書を通じて日髙敏隆に親しんできたが、そのエッセイは手にしたことがなかった。本に対する確かな目を持っている読書好きの友人から『世界を、こんなふうに見てごらん』(日髙敏隆著、集英社文庫)を最近薦められたのだが、もっと早く出会っておきたかった本である。

「いきものとおしゃべりするには、観察するのがいちばんだ、子どものころ、ぼくは、虫と話がしたかった。おまえどこに行くの。何を探しているの。虫は答えないけれど、いっしょうけんめい歩いていって、その先の葉っぱを食べはじめた。そう、おまえ、これが食べたかったの。言葉の代わりに、見て気がついていくことで、その虫の気持ちがわかる気がした。するとかわいくなる。うれしくなる。それが、ぼくの、いきものを見つめる原点だ」、「世界を、こんなふうに見てごらん。この本を、これからの少年少女と大人に贈る。人間や動物を見るときのぼくなりのヒントをまとめたものだ」。この前書きが著者の思いを率直に表している。

私もかなりの昆虫少年だったので、著者の気持ちがよく分かる。その志を貫いて動物行動学者になった著著と、企業で営業に携わるようになった私とでは、その後の道は大違いであるが。

「宙に浮くすすめ」では、「ヨーロッパの知識層はすごいと思っている。生きる自信を宗教に頼らない層がちゃんとある。もちろんキリスト教に頼る一般の人々は非常に多いけれど、そういう、西欧的でない人は絶えず悩みながら生きている。楽ではないから。でもそういう人たちに出会ったときは、非常にうれしかった。彼らはものごとを相対化して見るツールのひとつとして科学を使っている。科学が絶対と信じ、それを唯一のものの見方とする姿勢ではないのだ。神であれ、科学であれ、ひとつのことにしがみついて精神の基盤とすることは、これまでの人類が抱えてきた弱さ、幼さであり、これからはそういう人間精神の基盤をも相対化しないといけないのではないか。頼るものがあるほうが人間は楽だ。それにしたがい、疑問には目をつぶればいいのだから。・・・自分の精神のよって立つところに、いっさい、これは絶対というところはないと思うと不安になるが、その不安の中で、もがきながら耐えることが、これから生きていくことになるのではないかとぼくは思う。それはとても不安定だけれど、それでこそ、生きていくことが楽しくなるのではないだろうか」と述べている。よくぞ言ってくれたと喝采を贈りたい。

「それは遺伝か学習か」では、「ある動物がなぜそのような行動をとるか。答えを知るために動物行動学では観察や実験によって行動のメカニズムや発達のしかたを考える。そのとき、いつも取り上げられるのが、その行動は生得的(遺伝)か後天的(学習)かという問題だ。・・・遺伝と学習、サルと人間、自然淘汰とカンブリア爆発。立場や時代に合わせて振り子は揺れる。しかし揺れる振り子の、その奥にあるいきものの根本をじっと見つめ、それはいったい何なのだろうと、わからなくても探り続ければいいのだろうと思う」と記している

「いってごらん、会ってごらん」では、「生物学者の中には、名前もないような地味ないきものを調べなくても生物学は進むのではないかという人がいる。ぼくも生物学者のひとりだが、生物学が好きなのではなくて、生物が好きなのだ。こんなところにこんな虫がいて、こんな生き方をしているということがおもしろい」と語っている。まさに、そのとおりである。

日髙敏隆が、ますます好きになってしまった。