ダーウィン・ファンには涎が出るほど羨ましい本・・・【山椒読書論(186)】
動物行動学・行動生態学者の長谷川眞理子が、敬愛するチャールズ・ダーウィンが生まれ育った場所、学んだケンブリッジ、ビーグル号で訪れたガラパゴス、死去するまで長期に亘り研究、執筆や読書、散歩、家族との交流に勤しんだダウン・ハウスなど、ダーウィンが過ごした場所を長い期間をかけて実際に訪れた記録である『ダーウィンの足跡を訪ねて』(長谷川眞理子著、集英社新書ヴィジュアル版)は、心に残る魅力的な一冊だ。
豊富なカラー写真や銅版画、油彩画、水彩画、地図が掻き立てる臨場感と相俟って、きりっとした文章がダーウィンの進化論研究が深化していく様と温かい人柄を生き生きと描き出している。
「ここ(ガラパゴス)で初めて、彼は、種は時間とともに変化するのかもしれないという、進化の考えを抱くようになる。そして、翌1837年の初め、ビーグル号の鳥類標本を分類していた鳥類学者、画家、剥製師のジョン・グールドから、自分がいい加減にフィンチとして十把一絡げに送ってきた標本には、異なる種類がたくさん含まれていることを知らされた。これには驚愕したに違いない。知らないというのは、恐ろしいことだ。ダーウィンは、ガラパゴス諸島でもっと綿密な標本採集をすればよかったと後悔しただろう」。
「この(とうとう結婚のことを考え始めた)時期のダーウィンは、ロンドンのグレート・マールバラ街で博物学の仕事をし、兄と一緒に社交界にも出入りし、学者としての自分自身の地位を確立しようとあがきながら、ひっそりと異端の考え(=進化論)を練っていた。そこで、心身症とも思われる症状にしばしば襲われるのだが、進歩的な人々と交際していたことは、ずいぶんと心の支えになったのではないかと思う」。
ケント州ブロムリー近郊のダウンという村にある元・牧師館だったダウン・ハウス訪問記の中の一節。「ダーウィンのみならず、私は、いろいろな人の家の書庫を覗くのが大好きだ。博物館となっている歴史的な家に行っても、現代の友人の家に行っても、そこの書庫は必ず覗いてどんな本がおいてあるか見て回る。ダウン・ハウスでも、閉館間近になりながら、居間の一つで、鍵のかかったガラス扉の向こうにある本の背表紙を覗いていた。そのとき、館員の男性が一人、手に何冊かの古書を抱えて部屋に入ってきた。そして、持っていた鍵で、まさに私が覗いていた書庫のガラス扉を開け、その本を中に戻そうとした。私があまりにも物欲しそうにみつめていたからなのだろう。その男性は、持っていた本の一冊を私のほうに差し出し、『嗅いでみる?』と言ったのだ。私は、上の空で『イエス』と言って、差し出された本のページの間を嗅いでみた。古い本に特有の『黄色い』匂いがした。かさかさと乾いて、ちょっと酸っぱいような、脆い匂いである。5秒ぐらいだったろうか? 『いい匂いだよね』と言って、彼は本を書庫に戻し、鍵をかけて出て行ってしまった。私も本が好きな人間であることが、彼にもわかったのだろう。それは、ちょっとないくらい意外で幸せな5秒間であった。私の最初のダウン・ハウス訪問のハイライトは、ダーウィン自身が何度も手にとったに違いない、あの本の『黄色い』匂いだった」。本好きには堪らない、著者の感激ぶりが、私にも痛いほど伝わってきた。