『徒然草』は若き主君のために書かれた教科書であった・・・【山椒読書論(239)】
『吉田兼好とは誰だったのか――徒然草の謎』(大野芳著、幻冬舎新書)は、読み応えのある一冊だ。その理由は3つある。
第1は、謎多き吉田兼好の人物像と時代環境が明らかにされていること。第2は、『徒然草』がなぜ書かれたのかが突き止められていること。第3は、目から鱗が落ちるようなこれらの刺激的かつ斬新な説が、学界から袋叩きされ続けた女性研究者・林瑞栄によって、30年前に主張されていたこと。
兼好の本名は卜部兼好(うらべ・かねよし)と分かっているが、生没年は不詳。『徒然草』の原本は消失し、最古の写本も兼好の死後数十年を経てのものである。
時は1318年、後醍醐天皇が即位した宮中で、大変な事件が起きる。天皇が寵愛する女官を上流貴族・堀川具親が盗んでしまったのである。「天皇の処分をうけた具親は、洛北は岩倉の山荘に謹慎蟄居した。これに随従したのが、(堀川家の家司<事務職員>の)兼好であった」。この時、兼好40歳。
「山荘に籠もれば、日がな一日ぶらぶらしているのはつらい。この無為の時間を、(若くて、勉強嫌いの)具親の不興を慰めながら教導しておきたいというのが、林瑞栄の徒然草「文保2(1318)年8月」起稿説の根拠である。ロビイストがスーパー家庭教師に変身したのである」。この事件が起きるまでは、兼好は、鎌倉幕府と京都の宮廷を繋ぐロビイストを務めていたのである。
林瑞栄は『兼好発掘』(林瑞栄著、筑摩書房。出版元品切れだが、amazonなどで入手可能)の中で、「『つれづれなるままにひぐらし硯に向』うとは、兼好の記しつけた文句であるが、この文句の表現するものこそ岩倉逼塞中の具親の日常であり、(家司としての責任感から)それを守る家司兼好の日々を伝えるものではなかろうか」と述べている。すなわち、『徒然草』は不特定多数に読まれることを想定して書かれたものではなく、若き主人を慰め、導くための教科書だったというのだ。
歌人としては円熟期にあった56歳の兼好(やがて和歌四天王と称されるようになる)が、『徒然草』第38段以下の第2部を書き始めるのは、1334年のことであった。林瑞栄は、「世は、建武新政に湧き立つ中で、この政変の犠牲となって、若い具雅(具親の子)が受けた官位剥奪と昇任停止のうき目は、兼好のあふれ出るような同情を誘発したと読むからである。具雅の若さと容赦ない政変の非情との痛ましい出会いを目前にして、激情にちかい心情の促迫によって、兼好の筆は再び執られた」と考察している。まさに、「宮廷は、一寸先は真っ暗闇」なのである。