私が今まで出会ったことのない作家、そして、その不思議な小説・・・【山椒読書論(260)】
読み応えのある本を読んだときは、印象が新鮮なうちに書評を記し、気に入った表現などをノートに抜き書きするのが私の流儀であるが、読み終わってから2年間も書評を書けなかった本がある。読書好きたちのサイト「ほんばこや」に参加しないかと声をかけてくれた年下の友・赤羽卓美に教えられた、私にとって未知の作家、アゴタ・クリストフの『悪童日記』(アゴタ・クリストフ著、堀茂樹訳、ハヤカワepi文庫)、『ふたりの証拠』(アゴタ・クリストフ著、堀茂樹訳、ハヤカワepi文庫)、『第三の嘘』(アゴタ・クリストフ著、堀茂樹訳、ハヤカワepi文庫)がそれである。
『悪童日記』は、私が今まで出会ったことのない小説であった。
「(従姉ら若い男女の)グループは小声で、戦争のことを話している。また、軍隊からの脱走のこと、強制収容所のこと、抵抗運動のこと、占領からの解放のことを話している。彼らの話によれば、ぼくらの国に進駐し、ぼくらの味方だと称している外国の軍人たちは、実はぼくらの敵であって、近いうちにこの町にまで進軍してくるであろう、そして戦争に勝つであろう軍人たちは、敵ではなく、それどころかぼくらの解放者であるらしい」。「その後、ぼくらの国には新たに軍隊と政府ができるけれど、ぼくらの国の軍隊と政府を指導するのは、ぼくらの<解放者たち>なのだ。彼らの旗が、あらゆる公共の建物に翻っている。彼らの統帥者の写真が、至る所に掲げられている。彼らはぼくらに、彼らの国の歌謡曲を、彼らの国のダンスを教える。ぼくらの国の映画館で、彼らの映画を上映する。学校では、<解放者たち>の言語を学ぶことが義務づけられ、他の外国語は禁止されている。ぼくらの<解放者たち>に対しては、また、ぼくらの国の新政府に対しては、いかなる批判、いかなる冷やかしも許されない。単なる密告を根拠に、訴訟手続きを踏まず、裁判の判決も経ないで、誰でも投獄される。多くの男女が原因不明のまま姿を消し、そうなったら最後、彼らの消息は、もうけっして近親者に届かない。国境の鉄柵が、ふたたび建設された。今やそれは、越えることのできないものになっている。ぼくらの国は、鉄条網に包囲されている。こうしてぼくらは、外の世界から完全に隔離されてしまった」――著者はあからさまに名指しこそしていないが、著者の祖国・ハンガリーが第二次世界大戦末期から戦後にかけて、最初はナチス・ドイツによって、その後はソ連(現・ロシア)によって味わわされた悲劇が背景となっている。
何年も行方が分からなかった父が「ぼくら」の前に姿を現す。そして、国境を越えたいと言う。この小説のラストは衝撃的である。「そう、国境を越すための手段が一つある。その手段とは、自分の前に誰かにそこを通らせることだ。手に亜麻布の袋を提げ、真新しい足跡の上を、それから、お父さんのぐったりした体の上を踏んで、ぼくらのうちの一人が、もう一つの国へ去る。残ったほうの一人は、おばあちゃんの家に戻る」。
双子の兄弟の「ぼくら」が、見聞きした、あるいは自らが行ったさまざまな状況・行為――死、安楽死、性行為、孤独、労働、貧富、飢餓、エゴイズム、マゾヒズム、いじめ、暴力、悪意、戦争、占領、民族差別、強制収容、計画的集団殺戮などが、「ぼくら」の日記帳に簡潔に、そして乾いた文体で記されている。
その後の「ぼくら」が『ふたりの証拠』、さらに『第三の嘘』で描かれるが、これらをストーリーが連続した三部作として読んではいけない。これは、これからこの3冊を読もうとする人たちへの私のアドヴァイスだ。連続性を求め過ぎると、読者の頭が混乱してしまうからである。クリストフ自身も、これらのあまりにも重いテーマを1冊では書き尽くせず、角度を微妙に変えて再挑戦、再々挑戦したのだと思う。
『ふたりの証拠』の一節が、印象深い。「すべての人間は一冊の本を書くために生まれたのであって、ほかにはどんな目的もないんだ。天才的な本であろうと、凡庸な本であろうと、そんなことは大した問題じゃない。けれども、何も書かなければ、人は無為に生きたことになる。地上を通りすぎただけで痕跡を残さずに終わるのだから」。
『第三の嘘』の巻末の「アゴタ・クリストフの語ったこと」も興味深い。「『悪童日記』を書いた時は、必ずしも続篇は予定していませんでした。ただ、もし続きを書きたくなったら書けるように、その余地は残しておいたのです」。「私は、どうもがいても彼らの物語から脱出することができないでいます。『ふたりの証拠』でお終いになるだろうと思ったのですが、いまだに彼らのことが頭から離れないのです。・・・この小説(『第三の嘘』)であらいざらい述べようとしたのは、別離――祖国との、母語との、自らの子供時代との別離――の痛みです」。